ラヴェルのボレロ
1928年11月のある日、パリのオペラ座で、聴衆の意表をつく作品が発表され、聴衆に衝撃を与えた。演奏が終わったとき、客席から廊下に飛び出してきた一人の女性は大変興奮し、「この曲を作曲した人は気が狂っている!」と叫び出したといわれている。実際、それは、音楽の常識からいえば、かなり常軌を逸した作品であったからだ。

最初に小太鼓が、聴こえるか聴こえないかという小さな音で単調にリズムをきざみ始め、やがてそのリズムに乗ってフルートがエキゾティックな旋律を吹く。すると、続いてクラリネットがそれを引き取り、後半の旋律を奏する。次にはまったく同じ旋律が別の楽器で現われて際限なく続けられていく。間断なくきざまれる単調なリズム、執揃に繰り返される同一の旋律。

音楽は次第に勢いを増していき、クライマックスに達し、全オーケストラによるリズムと音響の洪水の中で、あたかも爆発するかのように転調して終わる。
聴衆は、最初とまどい、それからわけのわからない興奮に引きずり込まれていった。曲が終わると、客席から「ブラボー!アンコール!」の声が巻き起こり、作曲者に対する拍手で埋まった。作曲者が何度も何度も舞台中央に呼び出され、客席に向かって頭を下げた。作曲者は、一分の隙もなく礼装に身を固めたラヴェルであった。曲は、いうまでもなく《ボレロ》である。

ラヴェルが楽屋に引き上げてくると、祝辞を述べに友人たちが大勢楽屋へ詰めかけていた。
うれしさを隠しきれない表情で、ラヴェルは友人たちの讃辞を聞いていたが、その中の一人が、「この曲を作曲した人は気が狂っている!」とわめいていた例の女性のことを話すと、「その人こそ、わたしの音楽を本当に理解してくれた、ただ一人の人さ」と言って、顔をほころばせたという。

マドリーネ・ゴス女史は、評伝零-リス・ラヴェルの中で、《ボレロ》にまつわるこのようなエピソードを伝えている。はたして、この話がどの程度真実であるのかつまびらかではないが、ラヴェル自身、この曲の特異性をよく心得ていたことは確かである。

ラヴェルのオーケストラ曲といえば反射的にこの《ボレロ》の名前が浮かんでくるが、《ボレロ》は、もともとバレエ音楽として構想された作品であった。ラヴェルは、《ダフニスとクロエ》や《ラ・ヴァルス》など、全部で五曲のバレエ音楽を作曲しているが、この曲はその最後を飾る作品で、1928年の夏、バレリーナのイーダ・ルピンシテイン夫人の依頼を受けて書かれた。

ラヴェルは、1927年の暮れから翌28年の4月まで、アメリカに演奏旅行し、大成功を収めたが、それに先立って、イーダ・ルビンシテイン夫人から、彼女のバレエ団のための新作バレエの作曲を依頼されていた。

ルビンシテイン夫人が、その内容をスペイン的なものにしてほしいと希望したので、ラヴェルは最初、アルベニスのピアノ曲、組曲《イベリア》の中の曲をいくつかオーケストラ用に編曲するつもりでいた。ラヴェルは、オーケストラ編曲の名人で、ムソルグスキーのピアノ組曲《展覧会の絵》を、大指揮者であったクーセヴィッキーの依頼でオーケストレーションし、名をあげている。今度もその線でいこうと考えたのも無理からぬ話である。

その彼が、アメリカ旅行から帰国後、ゆっくりと体を休めてからいざ仕事にかかろうとした時、友人から意外なことを聞かされた。ラヴェルがオーケストレーションしようとしていたその組曲《イベリア》は、すでにスペインの作曲家兼指揮者のエンリケ・アルボスが、アルベニスの遺族から編曲の許可を受けて、大半の編曲をすませているというのだ。

これはラヴェルにとって、重大な手抜かりであった。思わぬ誤算に青くなった彼は、早速ルビンシテイン夫人とも相談の上、最初の計画を撤回し、独自の構想で新曲をまとめることにした。こうして、比較的短期間のうちに、この《ボレロ》が書かれることになったのである。

ラヴェルは、その夏、故郷のシブールに近い避暑地のサン=ジャン=ドリューズにひきこもり、この曲を書きあげた。思えば芸術の袖様もいじわるなことをしたものだが、結果的には、この計画変更のために、ラヴェルの作品の中でも最も人気のある作品が生まれたのだから、何が幸いするかわからない。

ラヴェルがサン=ジャン=ドリューズでこの曲の作曲にかかっていた時の模様を、ジュルダン=モランジュは、「ラヴェルと私たち」という著書の中で次のように伝えている。

「朝の海水浴に出かける前に、黄色いビーチ・コートに目のさめるような海水帽をかぶったラヴェルが、私(ギュスターヴ・サマゾイュ)に《ボレロ》のテーマをひいてくれる、という楽しい光景を私は心から味わった。そしてかれはこう言う。「このテーマには強烈なものがあると思いませんか?私はこれを全然展開せずに何度もくり返そうと思っているのだ。オーケストラをせいいっぱい大きくして行きながらね」

この《ボレロ》は、作曲が完了すると、早速、ブロニスラヴァ・ニジンスカ(名ダンサーニジンスキーの妹)の振り付け、アレクサンドル・ブノワの舞台装置で、その年の11月22日に、パリのオペラ座で初演された。主役はイーダ・ルピンシテイン夫人であった。

バレエの舞台は、スペインのある町の小さな酒場で、一段と高くなった丸いステージを囲んで、大勢の客たちが酒を飲んでいる。一人の踊り子がそのステージの上にのり、最初は足ならしをしているが、次第に感興が湧いてきて、情熱的なスペイン・ダンスを始める。

初めのうちはそっぽを向いていた客たちも、その強烈な舞踏のリズムと、妖艶な踊り子の姿に魅惑され、ついに舞台の周りに集まってくる。そして、音楽が高潮するに従って、彼らも興奮の極に達し、手拍子と足拍子をまじえながら熱狂的に踊り出す。

このバレエは、ただちにヨーロッパのバレエ愛好者の間で評判になったが、その音楽がバレエとは切り離して独立に演奏会で取り上げられると、あっという間に全世界に広がり、人気曲となった。これはラヴェル自身も予想していなかったことで、ラヴェルは初演の前、友人に、「こんなものは、日曜コンサート(ポピュラー・コンサート)では決してやらないだろう」と言っていたという。

ラヴェルは、自分でも述べているように、この曲をほんの手なぐさみのつもりで書いたのだった。それが思いがけなくも、ラヴェルの作品の中でも最も人気のある作品になったところがおもしろい。
ところで、ラヴエルは、この曲について、よくこう言っていたという。

「いったん曲想が得られれば、音楽院のどんな生徒でも、わたしと同じようにうまく曲が作れるだろう」と。
たしかに、この曲の場合は、リズムと調性が少しも変わらず、同じ主題を何度も繰り返し、その間一度も変奏や展開は行なわれない。そして、曲の初めから終わりまで、ただ一つのクレッシェンドで曲が盛り上げられていくのだから、構造から見れば、これほど簡単な音楽も珍しいといえるだろう。

しかし、音楽院の学生には絶対できないことが一つある。それは楽器の音色の作り方のうまさで、やはりこれは、オーケストレーションの魔術師といわれたラヴェルの特性が最大に発揮された作品なのである。

ストラヴィンスキーは、ラヴェルのことをスイスの時計師と呼んだ。彼の作品にはすべて冷静な計算が行き届き、細部にいたるまで整然と一分の狂いもなく組み立てられている。そうしたラヴェルの音楽の特色は、この《ボレロ》にもよく表れており、さまざまな楽器のもたらす音色のコントラストや、執勘に反復されるリズムと旋律の効果が正確に計算されている。

おそらく、ラヴェルの計算には、この曲に対する聴衆の反応も十分入っていたに違いない。
しかし、その後の人生は、彼の計算どおりには運ばなかった。
1932年(57歳)の秋、ラヴェルはパリで自動車事故に遭い、その時に頭を強く打った。彼の晩年の悲劇は、この時から始まったのである。

翌年の夏、ラヴェルは海岸に出かけたが、自分の体がもう泳げる状態ではないことを知って樗然とした。意識はすこぶる明瞭なのだが、体を動かそうとしても意のままにならず、ことばも不自由になっていった。そして、時々灰色の、どろんとした水の中にでも引き込まれるような、恐怖と憂諺が襲うようになってきたのである。

医者の診断はまちまちで、ある医者は脳腫瘍と診断し、また、ある医者は嚥下困難症とも失語症ともいった。しかし、実際には、どうやら脳が次第に萎縮していく病気だったらしく、明らかに交通事故の時に受けた傷がもとで起きた病であった。彼から音楽を奪い、生命を奪ったのは、この交通事故の後遺症だったのである。病勢は、ちょうど真綿で首を締めつけるような状態で、じわじわと進行した。だから、死の直前まで、理性はしっかりとしており、頭の中いっぱいに音楽が鳴り響いていた。ただ、表現手段がそれに結びつかなかったのである。

それだけに、彼は、誰よりも不幸だったといえよう。しかも、その不幸は5年も続いたのである。あのストラヴィンスキーの言ったスイスの時計師ということばに哺えていうなら、
その時計は、最後の瞬間まで、正確に、実に正確にセコンドを刻んでいたが、長針も短針も、とんでもない方向を指していた。そして、最後はついにサビついて動かなくなってしまったのだった。

こんな話がある。亡くなる数ヵ月前のこと、パリの演奏会で、《ダフニスとクロエ》が上演された。演奏が終わると、熱狂した聴衆は彼をとりまいたが、彼は群衆の間をうまくすり抜けて車に乗った。車が動き出すと、ラヴェルは友人の腕にすがりついて、オロオロと泣き出した。「頭の中は、音楽で、音楽でいっぱいなのにあとはことばにならなかった。

創造の泉が涸れてしまったのならともかく、彼の場合は、このようにコンコンと湧き出していたのだが、それが形にならなかったのである。音楽家として、これほどの悲劇というものが、ほかにあるだろうか。
この《ボレロ》を聴く時よく思うのだが、ラヴェルの生涯は、ちょうどこの《ボレロ》と同じであった。最後の二小節で、一転して転調し、悲劇の主人公となったのである。
 



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