ブラームス交響曲第一番ハ短調
1. バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、この三人の大作曲家をひとまとめにして、俗にドイツの三大Bといっている。いずれも頭文字がBで始まっているからである。

この三人のうち、バッハとほかの二人とはあまり共通したところはないが、ベートーヴェンとブラームスとは、いくつかの点で共通したものを持っている。二人とも地方の都市の出身で、ウィーンで名をあげたこと、一生を独身で通したこと、酒が好きであったこと、衣裳や身のまわりのことにあまり関心を示さなかったこと、そして、これは非常に重要なことだが、二人とも作曲に関しては大変な慎重居士だったこと、などがあげられよう。

俗に、石橋を叩いて渡るということわざがあるが、石橋をさんざん叩いて、それでもなおかつ渡ろうとはしなかったのが、ブラームスであった。ブラームスが最初の交響曲の作曲に、20年もの歳月をかけたのも、そのよい例だが、これは、交響曲の作曲に数年を費やしたベートーヴェンをしのぐ慎重居士ぶりである。

それでは、なぜ彼は、そのような長大な年月を一つの曲に費やしたのであろうか。ブラームスが《交響曲第一番》を生み出すまでのいきさつを、探ってみることにしよう。

ブラームスが、友人ヨアヒムからの紹介状をふところにして、デュッセルドルフにシューマンを訪ねたのは、1853年(20歳)の9月30日のことであった。彼は、たちまち、その楽才をシューマン夫妻に認められ、幸運なスタートを切ることができた。そしてその時から、彼とシューマン一家との深いつながりが生まれたのである。彼が、交響曲をつくろうと思いたったのは、1855年に、故郷のハンブルクでシューマンの《マンフレッド》序曲を聴いて感激してからだという。ブラームスが22歳の時である。

《マンフレッド》序曲という作品は、イギリスの詩人バイロンの劇詩「マンフレッド」につけた劇付随音楽の序曲として作曲されたもので、シューマンのオーケストラ曲の中でも最もすぐれたものといわれているだけあって、実に感動的に書かれている。この作品がブラームスの創作欲をかきたてたということは、十分に考えられることである。

彼は、ただちに第1楽章に着手し、1862年ぐらいまでに、この楽章を完成したといわれている。しかし、一つの楽章だけで7年もの歳月をかけているというのは、いかにもブラームス流だ。

ブラームスが、このように、慎重のうえにも慎重を期して作曲を進めたというのには、彼の性格からきていることもあるが、ブラームスが置かれていた、当時の状況をも考えてみなければならないだろう。

ブラームスは、何かにつけて、ベートーヴェンを目標にしていた人である。常々、彼は、ベートーヴェンに負けない作品をと考えていた。必要以上に、そのことを意識しすぎていた、といっても過言ではない。そして、一番ベートーヴェンに負けない作品を、と考えながら書いたのが、この《交響曲第一番》だったのである。

交響曲というのは、もとをたどればオペラの序曲などから発展成長してきたもので、モーツァルトやハイドンの時代には、まだ娯楽音楽であるディヴェルティメントやセレナードと、内容的に大差のない軽い作品も書かれていた。

それが、器楽曲最高の形式として、寸分の隙もない、緊密な構成を持った音楽に仕上げられたのは、ベートーヴェンの手によってであった。はっきり言って、交響曲というのは、ベートーヴェンによって書き尽くされてしまった観さえあった。だから、ベートーヴェン以後の交響曲の歴史は、いかにベートーヴェンの作品にない味を出すかに苦心した歴史といってよい。

しかし、彼のあとから交響曲を書き始めたベルリオーズ、メンデルスゾーン、シューマン、リストなど、いずれも一長一短で、もうひとつ決定打が出ていない。ベートーヴェンの秀峰を、さらに追い抜くような大作を心がけるとすれば、ブラームス自身も言っているように、「交響曲というのは、冗談ごとでは書けるものではない」のである。

ブラームスが普通の人間なら、ここで諦めるか、小手先だけの工夫を凝らした作品で妥協してしまっただろう。しかし、彼は、ゲルマン民族特有の粘り強さで、自分が、人間的にも仕事のうえでも、充実してくる時期を、じっと待っていたのである。

「背後にベートーヴェンの足音を聞きながら」
彼はそう言っているが、その生みの苦しみは、大変なものであったに違いない。
この間、彼は何もしなかったわけではない。2台のピアノのためのソナタを交響曲に改作しようとも試みている。しかし、これは結局、《ピアノ協奏曲第一番》として完成された。

そのほか、2曲の《オーケストラのためのセレナード》や《ハイドンの主題による変奏曲》といった作品を、筆ならし的に作曲し、次第に自信を深めて、また交響曲の作曲に立ち戻っている。1868年に、彼の最初の勝利が訪れた。彼の《ドイツ・レクイエム》がブレーメンで初演され、大成功を収めたのである。彼は、この大作の成功によって、作曲家としての不動の地位を築くことができた。ようやく機は熟してきたのである。

1874年(41歳)の夏、彼はチューリヒ湖畔のリュシリコンでひと夏を過ごしたが、この頃から、再び本腰を入れて交響曲の作曲に没頭し始めた。しかし、本腰を入れてといっても、彼のことなので、一気呵成というわけにはいかなかった。文字どおり推敲に推敲を重ね、それから2年後の1876年の9月に、リヒテンタールでやっと脱稿されるのである。実にプランをたててから、21年後のことであった。インスタントばやりの現代感覚からすれば気の遠くなるほどの歳月が、ただこの一曲のために費やされたのである。

話は前後するが、彼がこの曲の追い込みにかかっていた頃、その年の4月に、イギリスのケンブリッジ大学から音楽博士の学位を贈りたいと言ってきた。ところが、よく確かめてみると、この話は、ブラームス自身がドーヴァー海峡を渡って授与式に出席することが条件となっていた。

2.そこで、《交響曲第一番》の完成を間近に控えていたブラームスは、キッパリと断わってしまったのだった。時間が惜しかったし、それに堅苦しいイギリス人と交わるのが、わずらわしく思えたからである。もう一つ、船が嫌いだったからで、ブラームスは、旅行は嫌いではなかったが、船には弱かったのである。

世の中には肩書をほしがる人が多いが、ケンブリッジ大学の音楽博士という絶好の肩書をあっさりと断わってしまうところなど、いかにも、野人ブラームスらしい。
ところで、こうして多くの歳月を費やして書きあげられたこの《交響曲第一番》が、初めて演奏された場所が、ウィーンではなく、カールスルーエという小都市だったことに注目してほしい。

当時ブラームスは、ウィーンで確固たる名声を得ていたし、彼を支持する音楽家仲間が大勢いたのだから、彼が望めば、ウィーンで初演することも可能だったであろう。
ところが、彼はあえてそれをしなかった。曲は、その年の11月4日、カールスルーエで親しい友人のデッソフの指揮により初演された。
ブラームスは、初演に先立って、このデッソフに宛てて次のように手紙を書いている。

「わたしの初めて書いた交響曲は、わたしの親しい人たちのいる、よいオーケストラのある小さい町で、よい指揮者による演奏で聴きたいと思います。これが、ずっと前からわたしが心の中に抱いていた、ささやかな願いなのです」
デッソフが、ブラームスの期待に応えて、立派な初演を行なったことはいうまでもない。ちなみに、デッソフは、ブラームスより二歳年下の指揮者で、ウィーン・フィルの常任指揮者をつとめたこともあり、この《第一番》の初演を行なったほかにも、いろいろとブラームスの作品の演奏を手がけている。

カールスルーエでの成功に続いて、マンハイム、ミュンヘン、ウィーンでこの作品が取り上げられ、いずれも大成功であった。ブラームスは、ついに宿願を達した。この曲を聴いた大指揮者のハンス・フォン・ビューローは、いみじくも、この曲のことを《第10番》と呼んで絶讃したが、もちろんそれは、ベートーヴェンの不朽の名作《第9番》に続くべき交響曲という意味で、ブラームスこそ、ベートーヴェンのあとを継ぐ交響曲作曲家だ、ということを暗に示したのであった。

この頃のウィーン楽壇は、ワーグナー党とブラームス党の二つに割れ、互いに反目し合っていた。ワーグナー陣営では、交響曲作曲家のブルックナーがいて、その時までにすでに5曲の交響曲が作曲されていた。

この《交響曲第一番》は、そういった情勢のもとで、いわばブラームス党の輿望をにないながら吸々の声をあげたのだった。だから、味方陣営のビューローの讃辞は、いくぶんひいきの引き倒し的なところもないではないが、それだからといって、この作品の価値を少しも減じるものではなく、ブラームスのペンは、この《第一番》の成功で、あたかも魔法がとけたかのように、なめらかに動き出すのである。

翌1877年の秋、わずか4ヵ月という恐るべきスピードで《第一番》を書きあげたあと、1883年(50歳)には《第三番》を発表し、交響曲作曲家としてのゆるぎない地位を築いたのであった。ちなみに、好敵手ブルックナーが、《第七番》の初演の成功により、初めてその真価が世に認められたのは、1884年、ブルックナーが60歳の時であった。

ブラームスは、ドイツ・ロマン主義の燗熟期に活躍した作曲家であるが、同時代のワーグナーとは全く逆に、バッハやベートーヴェンの流れにそった、古典主義を旗印とした音楽を書いた。だから、この曲も、伝統的な古典形式によって書かれている。というよりも、ベートーヴェンの交響曲を手本にして書かれたといってよい。あるいは、もっと正確に述べるなら、ベートーヴェンの交響曲よりもすぐれた作品を、と念じながら書いているうちに、知らず知らず似ているところがたくさんできてしまったのだ、といったほうがよいだろう。

たとえば、「ハ短調」というこの曲の調性は、ベートーヴェンの《第五番》と同じものだし、第1楽章の短い基本動機の扱い方も、暗黒から光明へという思想も、《第五番》と同じである。

また、終楽章でアレグロ・ノン・トロッポ・マ・コン・ブリオになってから、第一ヴァイオリンによってのびやかに奏される第一主題は、《第九番》の「歓喜の主題」と感じが似ている。
そして、オーケストレーションも、ベートーヴェン風に地味で、重厚に仕上げられている。

このように、ベートーヴェンに似たところはずいぶんあるが、この曲をベートーヴェンの亜流と見るのは、間違いであろう。第1楽章の劇的な開始からして、実にブラームス的だし、第2楽章の沈潜した甘美な情緒や、第4楽章のアルペンホルンを模した晴朗な田園的気分や、展開部における入念な主題の処理法など、いずれも、ブラームスの体臭といったものを強く感じさせるからである。

この曲が、完全無欠すぎて反発を感じるという人もいる。事実、この曲の唯一の欠点は、あまりにも整いすぎていることであろう。
短期間で作曲された《第二番》や、人生の秋を知ってから書かれた《第四番》のような作品の方が、より親しみを感じるが、ブラームスがその青年期から壮年期にかけての全エネルギーを投入して書いたという意味で、やはり、これは、ブラームスの全作品のかなめとなる、重要な作品なのである。
 
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