チャイコフスキー交響曲第四番へ短調
大作曲家ワーグナーは、「女性は人生の音楽である」という名言を吐いているが、これは、なかなか含蓄のあることばだと思う。なぜなら、音楽というものは、耳に快い協和音だけから成り立っているわけではなく、不協和音もまた、不可欠の要素だからである。

名曲のほとんどは、なんらかの意味でロマンスと関係のないものはないといってもよいくらいだが、チャイコフスキーの《交響曲第四番》ほど、女性の明暗の影をくっきりと落としている作品も珍しいだろう。
チャイコフスキーの教え子に、イオシフ・コチェークというすぐれたヴァイオリニストがいた。彼は、ある富豪の未亡人の家に出入りしていたが、ときどき、この未亡人からの特別の依頼だ、と言ってはチャイコフスキーにヴァイオリンとピアノのための小品を注文してきた。

ところが、不思議なことに、小品の割にはいつも法外な額の謝礼がそれに対して支払われるので、チャイコフスキーは、次第に、その物好きな未亡人に興味を抱くようになった。1876年の冬のことである。

この未亡人こそ、チャイコフスキーの生涯にとって、きわめて重要な役割を果たしたナジェージダ・フィラレトーヴナ・フォン・メック夫人であった。
フォン・メック夫人の夫カール・ゲオルク・オットーは、大変な野心家で、ペテルブルク(現在のサンクト・ペテルブルク)の工科学校を卒業してから、しばらくの間技師として官庁に勤めていたが、やがて一旗揚げて鉄道経営者となり、50代の働き盛りで世を去るまでに、巨万の富を築いたのだった。

フォン・メック夫人は、1831年の生まれであるから、チャイコフスキーより9歳年上であった。彼女の父は、地方裁判所の判事をつとめたことのある大地主で、ヴァイオリンのうまい、静かな性格の紳士だった。彼女が、長じてから熱烈な音楽愛好家となったのも、この父親の影響であった。彼女は17歳の時、カールと結婚し、夫が他界するまでの間に六男六女の子をもうけていた。

フォン・メック家には、金が腐るほどあった。モスクワで初めて電灯のともった家は、このフォン・メック家であったという。屋敷は広大で、贅の限りを尽くし、大勢の雇い人を抱え、別荘をいくつも持っていた。ちなみに、フランス印象派の巨匠ドビュッシーが、青年時代に、この家のピアノの家庭教師として雇われていたことは有名だし、ポーランドの名ヴァイオリニストのヴィエニャフスキが晩年落塊し、フォン・メック家に厄介になっていたことも広く知られている。

夫カールがまだ健在だった頃の彼女は、夫の事業を達成させるために男まさりの働きをしていたが、夫が他界すると、事業の方は長男のウラジーミルにまかせ、彼女は家庭にひきこもっていた。未亡人になってからの彼女の楽しみは、2つだけしかなかった。一つは、子どもたちの健やかな成長を見守ること、もう一つは、よい音楽を聴くこと、ただそれだけだった。

フォン・メック夫人は、日頃チャイコフスキーの音楽を深く愛好していた。そこで彼女は、自分の家に出入りしていたコチェークを通して、ヴァイオリンの小品をチャイコフスキーに依頼していたのだが、コチェークから、敬愛する作曲家が経済的に大変困っており、作曲に没頭することができないということを聞き、チャイコフスキーに心から同情を寄せるようになったのだった。

そこで、彼女は、あり余る金を、なんとかしてこの作曲家のために役立てたいと考えた。年額6千ルーブル、これがチャイコフスキーに対して彼女が援助を申し出た金額であった。チャイコフスキーが、音楽院の教授となった時の初任給が50ルーブルであり、名作《白烏の湖》の謝礼が800ルーブルだったことを考えれば、この6千ルーブルという金額がいかに大きなものであったかが、よくわかるだろう。チャイコフスキーが、夫人の援助を快諾したのは言うまでもない。

チャイコフスキーとフォン・メック夫人との交際は、それから約13年も続くのであるが、この二人の関係を、単なる友愛と見るべきか、それともプラトニックな恋愛と見るべきか、その辺のところは、実に微妙である。

なぜかというと、この二人は、その13年間に1200通にもおよぶ手紙のやりとりをしながら、ついにただの一度も、直接会って親しくことばをかわしたことがなかったからである。世にも奇妙な交わりであった。こうして、フォン・メック夫人からの援助を受けるようになってからの彼は、経済的な心労に妨げられることなく、創作活動に全力を傾けるようになるのである。

しかし、世の中はそうそうよいことばかりは続かない。そのフォン・メック夫人との交際が始まった翌1877年に、チャイコフスキーは一人の女性との結婚をめぐって、人生最大の危機に見舞われるのである。

結婚の相手は、彼よりも9歳年下のアントニーナ・イワーノヴナ・ミリューコヴァという女性であった。この女性は、音楽院の教え子の一人であったが、チャイコフスキー自身は、彼女に対して特に関心を持っていたわけではなかった。ところが、ある日、突然、この女性から熱烈なラヴレターが彼のところに舞い込んできたのである。彼は周章狼狽した。

一度も親しく話し合ったこともない女性からのプロポーズ。しかも、その手紙の内容が、彼に言わせると非常に誠実だったので、彼は、相手を傷つけまいとして返事を書いた。しかし、結果的には、それがかえっていけなかったのである。ミリューコヴァからは、矢継ぎ早に手紙がくるようになり、彼は窮地に追いつめられてしまった。

ミリューコヴァの手紙は、次第に燃え立つような内容となり、ついには「あなたなしでは生きていけません。いっそのこと、自殺をしたいくらいです」とまで言ってきた。これではまるで脅迫である。恋愛経験の豊富な方ならばおわかりのように、惚れることよりも、惚れられることの方が、何倍も苦しいものである。彼は、その苦しみをいやというほど味わわされたに違いない。

こうして、一人の女性を破滅庭追いやるか、望まざる結婚をするかの選択を迫られた彼は、不本意ながらミリューコヴァとの結婚に踏み切るのである。彼らは、その年の7月6日に、ひっそりと結婚式を挙げたが、彼がミリューコヴァと結婚する前、彼女のことをどのように考えていたかは、フォン・メック夫人に、この結婚のいきさつを報じた手紙によって知ることができる。

「彼女の名は、アントニーナ・ミリューコヴァと申します。年は28歳で、どちらかといえば魅力的といえましょう。世間での評判は申し分ありません。暮らしはごく貧しく、教育は普通程度、気立ては大変よい娘ですが、自分一人で食べていくのがやっとで、貯えらしいものは何もありません…」

夢と現実には大きな違いがある。彼は結婚して、彼女を抱いて、初めて彼女の本当の姿を知った。ミリューコヴァは、決して性悪の女ではなかったが、この繊細で鋭敏な神経の持ち主の作曲家の妻としては、あまりにも知性に乏しく、低俗な女であった。

「わたしが何をしているのか、わたしの仕事は何なのか。わたしのプランはどういうもので、わたしが現在何を読み、知的、芸術的領域で何が好きなのか。彼女は、そういうことをちょっとでも知ろうという態度を、ただの一度も見せたことがなかった。彼女は、4年間もわたしを恋し続け、そのために立派な女流音楽家になれた、などと言っているくせに、彼女は、わたしの作品の塞釜媚を一つも知らなかった」とチャイコフスキーは書いている。

彼は、自分の責任を痛感して暗くなり、まもなく強度のノイローゼにかかってダウンした。
結婚生活はたった3ヵ月足らずで幕を閉じたのである。
弟のアナトーリは、心身ともに疲れ果てた兄を連れて、スイスからイタリアを回る転地療養に出かけた。スイスの澄み切った空気と静かな湖、イタリアの紺碧の海と空。外国の空気は、彼にとって最良の薬だった。彼は、みるみる元気を回復した。結婚前から書き進められていたこの《第四番》は、転地療養先のイタリアのサンレモで、1878年(38歳)の1月7日に書きあげられた。

フォン・メック夫人から援助を受けるようになってから初めて作曲されたこの大作は、もちろん、フォン・メック夫人に献呈されている。「この交響曲を書いていた冬の間じゅう、わたしはひどくふさいでいたが、この曲は、当時わたしが経験したことを忠実に反映するものだ」と彼自身述べているように、彼は、生まれて初めて、「人間と運命」をテーマとした、スケールの大きな作品を書きあげたのである。

この曲の特色は、全体に標題交響曲的な性格を持っていることで、それは、曲の完成後、チャイコフスキーがフォン・メック夫人に宛てた手紙の中で、各楽章の意味を説明するプログラムを書いていることからも明らかである。次にチャイコフスキーがフォン・メック夫人のために書いた各楽章のプログラムの大要を紹介しておこう。

第一楽章「序奏は、この交響曲全体の精髄運命です(主想旋律)。これは幸福を妨げ、絶えず魂に毒を注ぎ込む力です。この力は不敗なので、絶望し、諦めねばなりません(第一主題)。こういう場合には、逃避して夢に浸るのが一番です(第二主題)。なんという幸福、なんという喜びなのでしょう。しかし、このような状態も長続きはしません。運命は、再びわれわれの夢を残酷に呼び覚まします(主想旋律)。人生というのは、暗濾たる現実と、淡い夢との交錯なのです」

第二楽章「ここは悲哀の楽章です。仕事に疲れ果てた人が、夜半に放心したような気分で座っている時の、あの憂篭な困腫した状態です。せっかく手にした本も滑り落ち、過去の思い出が次から次へと湧いてくる。過ぎし日を懐かしむことは楽しいことですが、再び新しい生き方をする勇気はありません。わたしたちは、生活することに倦み疲れているのです」

第三楽章「この楽章は、気まぐれな唐草模様です。ちょうど酒を飲んで酩酊した時のような、ああいったとりとめのない感情です。空想をほしいままにしながら、次々と画像を追っていると、そこへ楽隊の響きと酔っぱらった農民たちの歌が飛び込んできます。これらは、現実とは少しも関係のない、いわば散乱する絵のひとこまひとこまなのです」

第四楽章「もしあなたが、自分の生活に喜びを見出すことができなかったら、あなたの周囲を見回してみることです。彼らは生活を楽しんでいます。そうしたら、あなたも彼らの生活の中に飛び込んでみることが大切です。祭りの日のにぎわい。わたしたちが人生を楽しんでいる彼らの中に飛び込もうとすると、再びあの運命の主想旋律が現われます。彼らは、わたしたちの悲しい暗い生活などには全く無関心に遊び回っています。彼らは、実に無邪気で単純なのです。しかし、あなたは、そうした彼らの幸福を一緒に喜んであげてほしいのです。そうすれば、きっとあなたも生きる希望が持てるようになるでしょう」

ご覧のように、このプログラムのいたるところに「運命」と「人生」という2つのことばが使われ、全体に暗い色調で彩られている。失敗に終わったミリューコヴァとの悪夢にも似た結婚生活が、この作品の上に大きく影を落としていることは、明らかであろう。

ただし、チャイコフスキーが書いたこのプログラムは、あくまでも曲の気分を理解させるためのもので、この曲自体は、そのプログラムを逐語的に追ったものではない。
このことをよく頭において聴かないと、間違った聴き方をしてしまうことになろう。
ともかくも、チャイコフスキーはこの《交響曲第四番》以降、急死するまでの間交響曲の世界では、一貫して、「運命」とか「人生」というものを追究するようになるのである。

ちなみに、この曲は、ベートーヴェンの《第五番》(運命)と同じように、全曲の中心楽想となるべき「運命の動機」が用いられていることも大きな特色で、この曲が、俗にチャイコフスキーの《運命》と呼ばれているゆえんである。

1876年から78年にかけての2年間は、チャイコフスキーにとって波乱の時期であったが、この波乱の時期を乗り切ることによって、彼は、人間的にも芸術的にも、ぐっと成長したのであった。不幸な結婚生活は、決してマイナスにはならなかったのである。
 



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