ベートーヴェン交響曲第九番二短調(合唱つき)
わたしは、ベートーヴェンの《第九》を聴くたびごとに、雄大な富士の夜明けを思い出す。
それは、五体に押しかぶさってくるような、強烈な感動なのである。
この富士の霊峰のように、《第九》は古今の数多い交響曲の中で、ひときわ気高く聳え立っている。

ロマン・ロランは、この《第九》について次のように述べている。
「《第九番》は合流点である。ひじょうに遠方から、また、まったく異なった地方からきた多くの奔流、あらゆる時代の、人間のさまざまな夢想や意欲といったものが、この中にまじり合っている。

またこれは、他の8つの交響曲と違って、山の頂上から過去のすべてを傭撤する回顧であるともいえる。《第八番》と《第九番》との間に長い年月が経過しているためにその展望は余計に広いものとなっており、生涯の「全書」を傭徹し飛翔することができているのである。ベートーヴェンの「生涯の全書」、この《第九番》はまさしくそのような曲なのであった。

ロマン・ロランはまた、「ベートーヴェンの一生は、嵐の一日に似ている」とも言っているが、彼の一生は激しい苦難の連続であった。彼は不幸な星の下に生まれ、若くして母親を失い、飲んだくれの父親と弟たちを抱えて苦闘した。せっかく実りかけたジュリェッタ・グィツチャルディとの恋も破れ、26歳から始まった忌むべき耳疾は、ついに彼に自殺まで決意させたのである。

「わたしは、君たち(弟)に別れを告げる。ある程度なおるものと信じていたのに、その希望も失ってしまった。秋の木の葉が落ちて凋むように…」俗にハイリゲンシュタットの遺書として知られている2通の手紙のうちの1802年の10月10日の日付を持つ、弟たちに宛てた手紙の一節である。
実に涙なしには読めない、悲痛な調子で書かれたこのハイリゲンシュタットの遺書である。

ところで、一時は死に神に魅入られたベートーヴェンを立ち直らせたのも、音楽の偉大な力であった。ベートーヴェンは、ハイリゲンシュタットの遺書の中で、次のように書いている。「ああ、わたしには、自分に課せられたすべての仕事を完成してしまわないうちは、この世を去ることはとうていできないように思われた。そういうわけで、このあわれな命を生きながらえているのだ」と。

パウル・ベッカーが述べているように、「彼は、いかに浮世の喜びが拒まれたにせよ、創造する喜びの方がそれよりはるかに大きいことを知っていた」のである。
ベートーヴェンは、勇を鼓して立ち上がった。そして、運命の咽喉笛を締めあげた。いや、思い切り噛み切った。いまや、彼の前途には、仄かな光明が輝き、新しい路が開けた。羅針盤は正常に戻り、帆は満々と風を孕んだ。生きようとする彼の雄々しい力は、ついに死に神を追い払ったのである。

第二の人生は、彼が創造の鬼となった時代である。彼は社交界から足を洗い、大自然と自分の心のみを友とした。一年ごとに脂がのり、一年ごとに名作を生んだ。交響曲でいえば、《第三番》(英雄)から《第八番》までが書かれるのである。そして45歳(1815年)から、彼の最後を飾る第三の人生が始まる。

苦悩を通じての歓喜、これは、ベートーヴェンの生活信条となった尊い言葉である。潮のように到来する桂桔の苦しみを、彼はじっと耐えながら歓喜を待った。いつ果たせるかわからない人生の勝利を……。やがてその日がやってくる。《第九》の初演は彼の頭上に月桂冠をもたらした。1824年の5月7日。時に彼は54歳、死は3年後に控えていたのである。

オネゲルは、「ベートーヴェンが耳が聴こえなかったことが、彼を内面的に成熟させ、その天才の集中を助け、時代の無味乾燥や凡庸さから彼を解放した」と述べているが、けだし的を射た言葉だといってよかろう。もし、ベートーヴェンが良家の生まれであったとしたら、ありきたりの脆弱な天才であったとしたら、そのぜんろうという宿命を背負わなかったとしたら、おそらく、《第九》のような傑作は生まれなかったに違いない。「冬来りなば、春遠からじ」苦しみの過程が大きければ大きいほど、その後に咲いた歓びの花は尊くも、また美しいのである。

みなさんの中には、すでに人生の辛酸をなめてこられた人もいるであろう。そして、これから味わおうとする人も多いであろう。ベートーヴェンは、苦しみに遭えば遭うほど、強くなっていった人間である。将来、あなたが、生涯における最も大きな不幸に直面するときがきたら、ただちにベートーヴェンのことを思い起こしてみることだ。

「自分よりも大きな苦しみをへてきたベートーヴェンが、その苦しみをへてきたが故に、あのような大事業をなしとげたのだ」ということを考えてみることだ。そうして、あなたが苦しみを克服し、新たなる人生の第一歩を踏み出した時、もう一度、この《第九》に耳を傾けてほしい。その時の《第九》が、どれほど、あなたの心を力強く励まし、どれほどあなたの門出を祝福してくれるかわからない。
 



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