チャイコフスキーバレエ音楽《白鳥の湖》
チャイコフスキーは、ウクライナの春と夏の生活が特に好きだった。チャイコフスキーは、ベートーヴェンやブラームスと同じように、自然をこよなく愛した人である。ロシアの、その、のびのびとした美しい自然は、彼に深い感動を与えたし、また彼は、その感動の波の中から、常に何かをつかみとり、それを創造への足がかりにしようと心がけていた。

1872年(32歳)の6月から7月にかけて、彼は、ウクライナのカメンカにある妹の家に出かけた。そのカメンカの家には妹の子どもたちがいた。チャイコフスキー自身には子どもがなかったが、生来、子どもが好きで、甥や姪にとって、彼は非常に優しい親切なおじさんであった。

彼は仕事の余暇をみはからっては、いつもその子どもたちを相手に過ごし、あたたかな家庭の雰囲気に浸りながら、孤独な自分の心を慰めていた。

ある時、彼はその子どもたちのために、《白鳥の湖》という小さなバレエ音楽を書いてやった。このバレエ音楽は、中世ドイツの伝説をもととしたもので、この時に書いたバレエ音楽が、実は、のちの名作の骨子となったのである。

それから3年後の1875年(35歳)の5月末、モスクワのボリショイ劇場の管理部からバレエ音楽の依頼があった。これは、あくまでもわたしの推理であるが、この時の依頼は一方的に《白鳥の湖》を書けといったものではなく、「どうでしょう、バレエ向きの何かよい材料はありませんかね」といった相談の形でもちかけられたものではなかろうか、と想像される。

そこでチャイコフスキーは、それより3年前に、習作のつもりで書いたあの《白鳥の湖》を持ち出し、「こういう幻想的なバレエはどうだろう」と具体的に話を進めていったのではなかろうか。なにしろ、同じ題材のものをわずか3年前に書いているのだから、こう結びつけて考えるのが自然であろう。

ともかく、話は本決まりとなり、チャイコフスキーは800ルーブルでこの作曲を引き受けた。その頃の彼の心境は、1875年9月10日付のリムスキー=コルサコフに宛てた手紙の中に、はっきりと書かれている。

「わたしが《白鳥の湖》の仕事を引き受けたのは、一つにはお金のためでもありますが、だいぶ以前からこのジャンルの音楽で、自分をためしてみたいと思っていたからです」
なにしろ、この作品は、彼にとっては最初のバレエ音楽だけに、準備はすこぶる慎重で、劇場の図書室からいろいろなスコアを借りてきては、熱心に研究した。その時、彼が特に注意深く調べたのは、アダンの《ジゼル》だったという。

《ジゼル》は、チャイコフスキーが生まれた翌年に初演されたロマンティック・バレエ最高の名作で、今まで踊り手の伴奏音楽としての値打ちしかなかったバレエ音楽を、芸術的に高めたという点に、この作品の歴史的価値があった。そして、チャイコフスキーが特に興味をひかれたのは、ライトモティーフ(示導動機)をたくみに使用したその劇的な展開の手法であった。

チャイコフスキーは、この《ジゼル》のスコアを研究しているうちに、どうせ作曲するのなら、《ジゼル》をしのぐような曲に仕上げてみよう、と考えたのだった。
チャィコフスキーは、その年の8月頃から本格的に作曲にとりかかり、途中、中断期間をおいて翌年の4月10日に脱稿した。

《白鳥の湖》の初演は、1877年の2月20日に、モスクワのボリショイ劇場で行なわれたが、完全な失敗だった。こんにち、歌舞伎でいう「忠臣蔵」的存在のこの人気バレエが、初演の時には完膚なきまでの失敗だったとは、とうてい信じられないことだが、それは事実だった。音楽の出来は立派だったが、振り付けや舞台装置が悪く、そのうえ、プリマ・バレリーナの技量が拙劣だったのが、失敗に終わった原因だとされている。

バレエのあらすじを紹介すると、こうである。
第一幕優美な序奏によって幕があがると、そこは、緑の樹木に囲まれた美しい庭園で、後ろには、立派な城が見える。20歳を迎えた王子ジークフリートの盛大な成年式を明日にひかえ、今日は城の前庭でにぎやかな前祝いが行なわれようとしている。テーブルの上には、山のようなど馳走が盛られ、いろいろな酒が並んでいる。

ジークフリートが家庭教師のヴォルフガング、友人のベンノ、それに村の若者や娘たちに囲まれて陽気に騒いでいるところへ、王子の母君が現われ、ジークフリートに向かって、「あなたは、いつまでもこうして遊んでいる年ではありません。明日の成年式の舞踏会には、各国から王女さまをお招きしていますから、その中から未来のお妃を選ぶのですよ」と言いわたす。

王子は仕方なしに承諾し、母君は満足げに退場する。ジークフリートは、まもなく気ままな青春時代と別れなければならないのかと思うと、心が重くなり、彼の顔からは笑いが消えていった。ベンノは、王子の気分を変えさせようと、さっそく酒ピンと杯を持ち出し、大騒ぎを始め、村の若者たちもワルツを踊り出して、次第に明るさを取り戻す。

やがて楽しい宴も終わり、太陽は西に沈む。王子が、ぼんやりと考えにふけっていると、そこへベンノと4、5人の青年たちが現われ、王子を白鳥狩りに誘う。王子の顔に笑いがよみがえり、一同とともに白鳥狩りに出かける。

第二幕この《白鳥の湖》の、いわばトレード・マークともいえる有名な序奏から始まる。
山間の湖に、美しい月が姿を映している。かわいらしい白鳥の群れが、滑るように湖面をよぎり、岸辺に着くと、次々に娘の姿に変わる。実は、彼女たちは、悪魔ロットバルトの魔法にかけられた娘たちで、昼は白鳥の姿となっていて、夜だけこの湖畔で人間の姿に戻ることができるのである。

そこへ、弓を手にした王子ジークフリートが登場する。彼はここで、王冠をいただいた一羽の白鳥を見つけ、弓を構えて矢を放とうとすると、その白鳥は、王子の目の前で美しい娘に変身する。彼女は、自分は白鳥の女王オデットですと名乗り、実は、ある国の王女だったのだが、悪魔ロットバルトの魔法にかけられて、白鳥の姿に変えられ、夜だけ人間の姿に戻ることができること、この湖畔に飛んでくる白鳥たちは、皆、彼女と同じ運命であることなどを話すので、王子は大変驚いてしまう。

美しいオデットの口から、その不幸な身の上話を聞いているうちに、王子の心は、次第に同情から愛に変わっていく。そして、さらにオデットから、この魔法を解くには、純粋な愛の力が必要だということを打ち明けられた王子は、翌日の成年式に、オデットとの婚約を発表することを誓ったのだった。そうした二人の様子を物陰でうかがっていたロットバルトは、不気味な笑いを浮かべる。やがて東の空が白み始め、王子との別れを惜しむオデットも娘たちも、悪魔ロットバルトによって白鳥の姿に戻される。

第三幕今日は待望の成年式。城の中の大広間には、招かれた貴族や廷臣たちが、続々と集まってくる。王子と母君が登場して所定の位置に着く。次に6ヵ国から招かれた美しい王女たちが登場するが、王子の心は、もっぱらオデットのことで一杯である。そこへロットバルトが、黒い衣装を着せ、オデットの容姿にそっくり似せた娘のオディールを連れて現われるので、王子はてっきりオデットだと思い込んでしまう。やがて舞踏会が始まり、各国の自慢の踊りが披露される。

この後、お目当てのオディールと王子のグラン・パ・ド・ドゥが踊られ、王子はオディールとの婚約を一同に宣言する。先ほどから広間の窓のところにとまり、その様子を見守っていた白鳥の姿のオデットは、悲しみの声をあげて飛び去る。続いて、雷鳴が轟き、一陣の怪しい風が吹いたかと思うと、黒い服を着た父娘は、悪魔の高笑いを残して消え去るので、この時初めて、ロットバルトの好計にかかったことを知った王子は、剣を取ってロットバルトのあとを追う。

第四幕舞台は、再び第二幕と同じ夜の湖畔である。オデットと白鳥の娘たちは、王子の大失敗から、永遠に白鳥の姿でいなければならなくなったことを悲しんでいる。そこへ、剣を手にした王子が駆けつけ、オデットの前に身を投げて自分の不覚をわび、オデットに対する愛が永遠に変わらないことを改めて誓う。そして、二人はしっかりと抱き合いながら涙にくれる。

その時、そこへ、ロットバルトが現われ、王子は剣を抜いて立ち向かう。王子は、悪戦苦闘の末、ロットバルトを倒すが、この世では永久に結ばれることのないのを悲観した二人は、湖に身を投げて死ぬ。すると、ここに奇跡が起こる。二人の強い愛の力で魔法は解け、白鳥の娘たちは、無事に人間の姿に戻ることができたのである。

チャイコフスキーの代表作は、たいてい初演の時に悪評を蒙っている。《ヴァイオリン協奏曲》しかり、《悲槍交響曲》またしかりで、この《白鳥の湖》も、彼が世を去った翌年、初演されてから実に17年後になって、初めて世に認められたのだった。

チャイコフスキーが急死すると、ボリショイ劇場をはじめ、各関係者は、ただちにチャイコスキーの追悼公演の準備にとりかかった。この《白鳥の湖》が再び話題となったのは、その時のことである。かねてからこのバレエの失敗に不審を抱いていたマリウス・プティパは、さっそくモスクワから台本とスコアを取り寄せ、詳細に検討したところ、台本も音楽も、大変よくできているのに驚いてしまった。

そこで彼は、有名な第二幕の振り付けや演出を全面的にやり直し、その第二幕だけを1894年の2月に上演し、予想どおりの評判を得たのである。この成功に気をよくした彼は、今度は、全幕演の計画をたて、弟子のイワノフの協力を得て、振り付けや演出を再びやり直し、1895年の1月15日、ペテルブルクのマリンスキー劇場で舞台にかけ、驚異的な大成功を収めたのだった。

もっとも、この時の成功は、ただプティパとイワノフの振り付けと演出がよかったというだけではなく、オデットを演じたイタリア生まれの名バレリーナ、ピエリーナ・レニャーニが、抜群の踊りを見せたということにもよる。つまり、プティパ、イワノフ、レニャーニの三者による、それこそ三位一体の努力と情熱とが、この蘇演に成功をもたらしたのだといえよう。

現在、《白鳥の湖》といえば、必ずプティパ=イワノフ版を思い出すくらいに、彼らの行なった振り付けと演出とは、このバレエの見本的な存在となっている。このほかにディアギレフ、ワガノワ、ロプホフ、セルゲイエフらが、それぞれ特色のある演出を行なっているが、これらの中では、セルゲイエフの演出が、チャイコフスキーの思想を最も忠実に表したものとして、こんにちのロシア・バレエ界では高く評価されているようだ。

現在、キーロフ・バレエ団は、このセルゲイエフが1950年に演出した形を、忠実に守っている。なお、この《白鳥の湖》のオリジナル版の台本は、チャイコフスキーの弟のモデストの述べたところによると、最後のところは悲劇的な結末となっているが、現在の演出では、ハッピーエンドにしてしまうことが多い。しかし、大詰めの音楽は悲劇的に書かれているのだから、やはり、悲劇で終わらせた方が好ましいように思う。
 



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