ベートーヴェンピアノ・ソナタ第二三番へ短調(熱情)
1.フランス革命が勃発する2年前、1787年の4月のある日、一人の少年がウィーンのモーツァルトの家へ紹介状を手にしてやってきた。
その頃、ピアノの大家としてのモーツァルトの名声は、ヨーロッパじゅうに鳴り響いていたので、ピアニスト志望の少年がモーツァルトの家の扉を叩くことは、そう珍しいことではなかったが、その日、モーツァルトの前に姿を現わしたこの少年の様子は、だいぶ普通とは違っていた。

少年は、17歳と言っていたが、年齢の割には背が低く、見るからに筋肉質の健康そうな体つきで、お世辞にも、スマートなスタイルとはいえず、人相もよくなかった。額が異常に大きく発達しており、その下に松毛虫のような太い眉毛が並んでいる。いわゆるげじげじ眉というやつである。鼻は低くてたくましい獅子鼻、そして、真一文字に結んだ大きな口が、辛うじてそれを支えている。眼はギョロッと大きく、その底に鋭く無気味な光をたたえていて、いかにも意志の強そうな、不敵な面構えである。

モーツァルトは、少年の特異な風貌には驚いたものの、どうせ、この少年もよくあるうぬぼれの強いピアニストの卵の一人なのだろう……そう考えて、「何か一曲弾いてみてください」と声をかけた。少年はピアノに向かうと、まず一曲弾いた。演奏は大変立派だった。しかし、別にモーツァルトが感心した気配はなかった。どうせ、今日のために猛練習してきたのだろうから、このぐらいは弾けても当たり前。モーツァルトの表情ははっきりそう語っていた。そうしたモーツァルトの気持ちを、敏感に感じとったこの少年は、モーツァルトに懇願した。

「モーツァルト先生、どうぞ主題をお願いします」
「主題だって、こいつはおもしろい。どんなふうにまとめるかお手並拝見といくか」モーツァルトはさっそく少年に主題を与えた。少年は、与えられた主題をもとにして堂々たる即興演奏を繰り広げていった。少年の即興演奏は、すでに円熟期に達した大家のように素晴らしかった。思いもかけなかった少年の妙技に驚嘆したモーツァルトは、演奏中の少年をそのままにして隣室へ行き、そこで待っていた友人にこう言ったという。

「君、あの少年に注意したまえ!彼はきっと将来、世界をあっと言わせるような人間になるぞ」と。
この時のモーツァルトの予言は、みごとに当たった。それから10年もたたぬうちに、少年の名は天下に鳴り響くのである。この少年こそ、若き日のベートーヴェンであったことは言うまでもない。

以上の話は、通常のベートーヴェンの伝記にはみな載っている。しかし、モーツァルトとベートーヴェンという音楽史上の二大巨星が軌道を接したのは、ごくわずかの間だけであった。

ベートーヴェンの最初のウィーン訪問は2週間で打ち切られ、5年半後ベートーヴェンが再度ウィーンに出てきた時には、すでにモーツァルトはこの世の人ではなかったからである。

かつてモーツァルトを驚倒させたベートーヴェンのピアノのテクニックは、この5年半の間にさらに磨き抜かれ、スケールが大きくなっていた。彼は、故郷ボンで親しくしていた、音楽好きの貴族ワルトシュタイン伯爵の紹介で、音楽の都ウィーンの社交界にすぐ入り込むことができ、リヒノフスキー侯爵やトゥーン伯爵夫人といった大立者の知己を得ることができたが、これは、彼にとって大変有利であった。当時、音楽はまだ一般庶民のものではなく、演奏会はもっぱら貴族の私的な集まりで催されていた、というのが実情だったからである。

ウィーンに腰を落ち着けてからのベートーヴェンの活躍ぶりは、さながら宮本武蔵のような剣豪の活躍ぶりを思い起こさせるものがある。当時は演奏試合のようなことが大変好まれていた時代で、ウィーンの貴族たちは、ひいきの演奏家に声援を送り、その勝敗に一喜一憂していた。

音楽家は名声を得るためには、公開の席上で行なわれる演奏試合でライバルを倒すのが一番の近道であった。だから、ボンから出て来たばかりの無名のピアニスト、ベートーヴェンは、次々と強敵をなぎ倒して、一躍ウィーンの音楽好きの貴族たちの寵児となったのである。貴族たちは、寄るとさわるとベートーヴェンの噂でもちきりだった。

「ボンから来たベートーヴェンの演奏は、もうお聴きになりましたか。素晴らしいものですよ」
「本当に、まるで悪魔が乗り移っているような弾き方をしますな」
こうして、ベートーヴェンは、まず演奏家としての名声を確立し、わずかに遅れて作曲家としての地位も次第に固めていったのだった。

ベートーヴェンは、生涯に32曲のピアノ・ソナタをはじめ、おびただしい数のピアノ曲を作曲しているが、これらの作品は、いずれも、そうしたピアノの名手としての彼の特性と活躍ぶりを反映するもので、特に、32曲のピアノ・ソナタは、ピアノ音楽の最高峰として知られ、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》がピアノの旧約聖書と呼ばれるのに対して、ピアノの新約聖書と呼ばれているのである。

2.ベートーヴェンのピアノ・ソナタから一曲だけを選ぶとしたら、まず候補にあがるのが、この《第二三番》(熱情)であろう。俗に《ピアノ・ソナタ第八番》(悲恰)、《第一四番》(月光)、《第一二番》(ワルトシュタイン)とこの《第二三番》の4曲を、ベートーヴェンの四大ピアノ・ソナタといっているが、その4曲の中で最も内容が充実していて、聴きごたえのあるのがこの曲だからである。

この曲は、《ヴァイオリン協奏曲》、《交響曲第五番》(運命)、《交響曲第六番》(田園)、《ピアノ協奏曲第五番》(皇帝)などの名作が、次々と生み出されたいわゆる傑作の森(ロマン・ロラン)の時期に書かれたもので、この曲のスケッチが《ワルトシュタインソナタ》のそれとともに現われているところから、おそらく、1806年(36歳)の夏頃に作曲したものと考えられているが、もっと早く、1804年には手が着けられていたとする説もある。この曲に関して、弟子のフェルディナント・リースが次のような話を伝えているからである。

それは、ベートーヴェンの致命的な耳の病が、まだ世間に知られていない頃のことであった。ある夏の朝、リースが、バーデンにベートーヴェンを訪ねたところ、ベートーヴェンはいつになく上機嫌で、さっそくリースを連れて散歩に出かけた。ベートーヴェンは、歩きながら、吃るように、また、吠えるようにして何かを口ずさんでいた。リースは、いつものことで、この巨人が何か新しい作曲に心を奪われているのだなと思い、彼の考えの邪魔にならないように、黙ってついていった。

こうして小一時間も歩いたあと、二人が芝生の上に腰を下してひと休みしていると、はるかかなたの谷あいで吹く牧童の笛の音が聞こえてきた。静かな森にこだまする牧歌的な笛の音に感動したリースは、「どこかで誰かが笛を吹いています」とベートーヴェンの注意をうながした。ベートーヴェンは、ただちに耳をそばだてて聞いた。しかし、彼の表情からすると、牧童の笛の音が聞こえていないことは明らかであった。リースはこの時、ベートーヴェンの耳の病気の重さをはっきりと知り、深く同情したという。

やがて、二人は腰を上げ、帰路についた。その間もベートーヴェンは、旋律の断片を口ずさんだり、時には、例によって大声で歌ったりしていた。彼らがその日遅くなって家に帰り着くと、ベートーヴェンは、帽子も脱がずにピアノの前に座り、「これから新しい曲を弾いてあげるよ」と言って、激しい感情をこめて彼の知らない曲を弾いた。それが、この《熱情ソナタ》の終楽章だった、というのである。

この曲に関してはもう一つ有名な話がある。1806年の夏、ベートーヴェンは、マルトンヴァシャールのブルンスヴィック伯爵を訪れ、また、秋にはグレーツ(現在のチェコのフラデッ・クラロベ)のリヒノフスキー侯爵を訪問した。いずれもベートーヴェンには関係の深い人物で、ブルンスヴィック伯爵は、かつて永遠の恋人の候補にもあがったテレーゼやダイム夫人の兄であり、リヒノフスキー侯爵は、ベートーヴェンがウィーンに出てから、あらゆる面で惜しみない援助を与えてくれた恩人である。事件は、リヒノフスキー侯爵の家に滞在している時に起きた。

リヒノフスキー邸には、ベートーヴェンのほかに、フランス軍の将校が何人か泊っていた。
リヒノフスキー侯は、客をもてなすために、ベートーヴェンに新作のソナタを弾くよう強要した。ベートーヴェンは熱烈な愛国者だったので、そのような機会に、よりにもよって嫌いなフランス人のために演奏することを、断固として拒絶した。

そして、夜更けだったにもかかわらず、所持品をまとめて館を飛び出し、馬車を乗り継いでウィーンに帰ってきてしまった。ウィーンの自宅に帰ってからも、彼の怒りはおさまらず、飾ってあったリヒノフスキー侯の石膏像を床の上に投げつけ、コナゴナにしてしまった、というからすさまじい。

リヒノフスキー侯爵は、ベートーヴェンの最大のパトロンで、その時まで、彼は侯から年金をもらっていたが、事件以来、リヒノフスキー侯との関係が打ち切られたのはもちろんである。ベートーヴェンが、そうした経済的安定を棒に振ってまで、自分の意志を通したのは、いかにも頑固一徹の彼らしい。

ちなみに、現在残っているこの曲の楽譜には、雨に濡れたしみのあとがはっきりと印されているが、このしみは、ベートーヴェンがリヒノフスキーの館を飛び出した時、あいにくと豪雨にあい、ずぶ濡れになったためにできたものだといわれている。

《熱情》というこの曲の題名は、ハンブルクのクランッから出版された連弾用編曲に、初めてつけられたもので、ベートーヴェン自身のつけたものではない。しかし、曲の内容からいっても、以上のようなエピソードからも、この曲にふさわしいものといってよかろう。

曲は、第1楽章アレグロ・アッサイ、第2楽章アンダンテ・コン・モート、第3楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポの三つの楽章からできている。この曲にはいくつか大きな特徴がある。まず、形の上では、第1楽章と第3楽章を続けていることで、終曲の盛りあがりが、これでいっそう強められている。次に、第1楽章で、《交響曲第五番》の有名な「運命の動機」に似た動機が現われることで、この「運命の動機」を用いた例としては《ピアノ協奏曲第四番》や《ヴァイオリン協奏曲》があげられる。

このように、同じ時期に並行して進めている作品に、一つの共通の動機を、やや形を変えて使うというのは、彼の作曲上の大きな特色であった。
ともかく、この曲には、《交響曲第五番》に代表される、彼の力強さと、激しい情熱の爆発、何事にも負けない不屈の闘志というものがうかがえ、加えて彼の雄潭なピアニズムのすべてがあるといえる。この曲を聴いて思い出すのは、ベートーヴェンがリヒノフスキーの館を脱出するとき置き手紙したといわれる、次のことばである。「あなたが侯爵であるのは、生まれからきた偶然にすぎません。それにひきかえ、わたしは自分で自分を築きました。侯爵は何千人もいますが、ベートーヴェンはただ一人です」


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