ビゼーのオペラ《カルメン》
1875年という年は、音楽や美術、文学などに関心を持つ人にとって大変重要な年の一つとなっている。それは、これらの分野で顕著な業績をあげた人たちが、この年に数多く生まれたり死んだりしているからである。

まず生まれた方からいくと、大作曲家のラヴェルがこの年の3月7日に生まれているし、大ヴァイオリニスト兼作曲家のクライスラー、大指揮者のモントゥー、それにシュヴァイツァー博士といった人たちが、ともにこの1875年に孤々の声をあげた。このほか、トーマス・マン、リルケといった文学畑の逸材もこの年の生まれである。亡くなった方も大物が多い。画家のコロー、ミレーといった人たちとか、作家のメーリケ、そして、忘れることのできないのが大作曲家のビゼーである。

今ではビゼーといえば《カルメン》、また《カルメン》といえば即座に作曲者ビゼーの名が口をついて出るほど、世界の人たちから愛され、親しまれているのが彼の不朽の名作、オペラ《カルメン》である。おそらく、毎日、世界のどこかで、オペラ《カルメン》が上演されているといっても過言ではない。

日本でも、浅草オペラ華やかりし頃から親しまれ、〈闘牛士の歌〉や〈ハバネラ〉の旋律は、牛乳配達の小僧さんまで知っていたという。本家本元のフランスでは、1947年の6月1日にパリのオペラ・コミック座で1500回記念公演が行なわれたというから、その人気のほども知られよう。

ところが、えてして名作といわれる作品は最初、意外と一般受けが悪いというのが通り相場で、このオペラ《カルメン》の場合も例外ではなかった。それというのも、ハッピー・エンドに終わるそれまでのオペラというものになじんでいた当時の聴衆が、このオペラの内容に対して、今のことばでいう「拒絶反応」を起こしたのだという。

ここでこのオペラのあらすじを簡単に紹介しておこう。
第一幕有名な前奏曲で幕があがると、そこはセピリャの町の広場である。衛兵の詰所の前では、伍長のモラレスや兵隊たちが通行人を眺めながら品定めをしている。そのあと、伍長のドン・ホセが交替で勤務につく。昼休みにタバコエ場の女工カルメンが、仲間と一緒に工場から出てくる。

カルメンは、やさ男のホセを見て〈ハバネラ〉を歌い、持っていた紅い花を彼に投げつけてひきあげる。そこへ、婚約者のミカエラが現われ、故郷の母親の手紙をホセに渡す。そのあと、カルメンと女工仲間のマヌエリータとが喧嘩を始め、カルメンが逮捕されてくる。
カルメンの監視を命じられたホセは、カルメンの誘惑に負けて、彼女を逃がしてしまう。

第二幕俗に「アルカラの竜騎兵」と呼ばれている間奏曲で幕が上がる。ここはセビリヤの町はずれ、カルメンの働くリリアス・パスチャの酒場で、第一幕から約2ヵ月たっている。にぎやかな酒場もそろそろ閉店という時になって、エスカミーリョが〈闘牛士の歌〉を歌いながら登場し、カルメンはその雄々しい姿に心をひかれる。

そのあと、カルメンのため投獄されていたホセが現われる。カルメンは喜んで彼を迎え、踊りを踊って歓待する。しかし、まもなく帰営のラッパが鳴り、ホセが帰り仕度を始めるので、カルメンは不機嫌になる。ホセは胸のポケットから色あせたあの時の花を取り出し、〈花の歌〉を歌って胸のうちを述べる。

カルメンは、ホセが自分を愛しているのなら脱走して自由を楽しもう、と言ってホセを困らせているところへ、隊長のスニガが来て、ホセがまだ隊に戻らないことを叱責するので、二人は斬り合いになる。密輸入者たちの加勢でスニガは追い出され、ホセは心ならずも密輸入団の仲間入りをすることになる。

第三幕《アルルの女》から転用した間奏曲で幕が開くと、山の中の寂しい場所。密輸入者たちがたむろしている中で、ホセは母親を思い出して沈んでいる。ホセと言い争いをしたカルメンが、フラスキータやメルセデスに加わってトランプ占いをやってみると、なんべんやっても、自分とホセが死ぬという卦が出るので、悟然とする。

ホセが見張りに立っていると、闘牛士のエスカミーリョがカルメンを訪ねて登ってくる。かっとなったホセは、エスカミーリョに斬りつけ、エスカミーリョは危ういところをカルメンに助けられる。そこへ密輸入団の見張りに捕まったミカエラが来て、ホセの母親が危篤であると告げるので、ホセはカルメンの心変わりを気にかけながらも、ひとまず山を下りる決心をする。

第四幕「アラゴネーズ」として知られている有名な間奏曲から始まる。所は闘牛場の前である。闘牛士たちが勇ましく入場して来る。盛装したカルメンもエスカミーリョに付き添って現われる。メルセデスとフラスキータがやってきて、ホセに気をつけろと注意する。

ひとり残ったカルメンのところへ、痩せて目をギラつかせたホセが現われる。ホセはカルメンに戻ってくれと何度も哀願するが、エスカミーリョにすっかり心を奪われているカルメンは手きびしく拒絶する。なおも言い寄るホセに、カルメンは、彼からもらった指環をはずして投げ返し、場内から湧き起こる「エスカミーリョ万歳!」の歓声につられて急いで闘牛場に入るとする。

その時、憎悪に狂ったホセの手には短刀が固く握られ、白刃一閃、カルメンは朱に染まって倒れる。闘牛場からは、興奮に酔った観衆がぞろぞろと出てきてその凄惨な現場を見て思わず立ちすくむ。
「おれが殺したんだ!ああ、カルメン、いとしいカルメン!」
ホセはそう叫ぶと、カルメンの遺骸の上に泣き崩れてしまう。
劇的な幕切れである。

このオペラの原作は、プロスペル・メリメの小説『カルメン』で、原作者のメリメは、1803年にパリで生まれ、オペラ《カルメン》が初演される5年前の1870年に67歳で世を去った。メリメは、文学のみならず、神学、占術史学、考古学にも造詣の深かった作家で、この「カルメン」と『コロンバ』が彼の代表作である。

しかし、1845年に出版された小説『カルメン』は、彼の生存中あまり世間の話題にならず、彼自身も、よもやこの作品を土台にしたオペラがつくられ、しかもそれがこれほどに世の人たちから愛されるようになろうなどとは、考えてもみなかったに違いない。

メリメの功績は、自由奔放な生き方を信条とするジプシー女、カルメンをつくりあげたことであろう。彼は、この小説の中で、カルメンの素顔をこのように描いている。

「肌は、もっとも完全に滑らかではあったが、銅色に極めて近かった。眼は斜視だが、切れが長く、パッチリした好い目である。唇は少々厚いが、形は端正で、皮をむいた巴旦杏の実よりも白い歯並びを時々チラリと見せていた。髪の毛は、恐らく少々太すぎたであろうが、烏の羽のように青光りする光沢を放って丈長に艶々と光っている」

また、さらにこのようにも描いている。
「不思議な野性的な美しさであり、一目見たものを先ず驚かすが、以後決して忘れることのできない顔立ちである。なかんずく彼女の眼は情慾的であり同時に兇暴な表情をそなえており、私は人間の目付にこういう表情を見出したことはない」
いかにも血と砂の国の女らしい野性美にあふれた悩殺的美女カルメンの姿が、目前に浮かんでくるようなみごとな描写である。

ここでその原作にふれてみよう。
原作の「カルメン」はわたしがスペイン山中の泉のほとりで、一人の男と出会うところから始まる。わたしはその夜、その男と山の中の木賃宿に泊り、その宿で、男が懸賞金までかけられている凶悪犯のドン・ホセであることを知る。

それからしばらくして、ジプシー女カルメンと会い、その家で再びホセに会う。そして、二、三日してから、また偶然の機会に、今度は獄につながれているホセに会うのである。彼は、愛するカルメンを殺して自首し、絞首台に上る日を待っていたのだった。こうして、ホセの悲しい恋の物語が彼の口から語られる。

ドンという名が示すように、彼は良い家柄の出身だったが、郷里を捨てて騎兵隊に入り、やがて伍長に昇進、セピリャのタバコエ場の衛兵となる。ここでカルメンと知り合い、次々に事件をひき起こして密輸入者の群に加わり、ついにはアンダルーシア随一の大悪党となる。

そして、カルメンの情夫のガルシアを倒し、その後、カルメンが闘牛士のルーカスに思いを寄せるのを嫉妬し、最後には、カルメンを刺して自首する。
以上が原作の内容だが、お気づきのように、オペラの《カルメン》は、登場人物といい、筋といい、原作とはだいぶ違っている。

オペラの台本を書いたのはビゼーと親しくしていたアレヴィとメイヤックの二人で、彼らは原作をオペラ化するに当たって、カルメンだけはほぼ原作どおりとし、あとはホセをアンダルーシア随一の大悪党から純情な密輸入者に変えたり、原作ではそれほど目立たない存在の闘牛士のルーカスを、ホセとカルメンを張り合うライバルとし、派手な役割を振り当てるなど、相当思い切って手を加えた。

また、原作にはないホセの婚約者ミカエラを登場させたのは、台本作者たちの大きな功績で、血なまぐさいこのオペラの中の、一服の清涼剤となっている。
オペラ《カルメン》は、1874年の12月に全曲スコアが完成し、十分な練習を積んだのち、1875年の3月3日にパリのオペラ・コミック座で初演の幕を開けたが、案に相違して不評であった。

台本作者の一人のアレヴィは、「終わりに近づくほど冷たくなり、第四幕は最初から最後まで氷のように冷たく迎えられた」と書いているように、聴衆の態度はひどく冷たかったといわれている。しかし、これは、冷たいというよりもむしろ「戸惑っていた」とみるのが本当であろう。

初めにも書いたように、物語が非常にリアルでなまぐさく、音楽もあまりにスペイン的なので、いつもきれいごとで終わっていた当時のフランスのオペラとは、すべての点で違っていたからである。聴衆がこのオペラを理解するようになるには、しばらくの時間が必要であった。

オペラ《カルメン》によって、フランス・オペラに新しい道が開かれた。このオペラを観たチャイコフスキーは、「このオペラは、必ずや全世界を征服するであろう」と予言したが、気の毒なことに作曲者のビゼーは、その予言の成就をまたず、初演からちょうど3ヵ月後の1875年の6月3日、持病のノドの病と心臓障害のため世を去った。

ピゼーが危篤状態に陥った夜、オペラ・コミック座では33回目の《カルメン》が舞台にかけられていたが、実に不思議なことが起こった。第三幕のカルタ占いの場でカルメンに扮したガリ・マリエがトランプ札を並べていると、何度やっても不吉な札ばかりが出るのである。そうしたことはめったにないことなので、彼女は胸騒ぎがしてならなかったが、そのまま舞台を続けたという。ちょうどその頃、ビゼーの魂は生死の境をさまよっていたのであった。

不思議といえば、ビゼーは妙に3という数字に因縁が深かった。《カルメン》の初演が3月3日、死んだのが3ヵ月後の6月3日で《カルメン》の33回目の上演中。持病は3つあって、年は36歳であった。
 



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