歌詞は字面を読むだけでは感動は伝えられない
歌詞というのは、いまの時代、ほんとうにむずかしいと思う。
なぜかというと、いままではよく「多くの人の共感を得る」のが、いい歌詞だといわれてきた。

いわば「まるで私のことを歌っている」と多くの人に思わせるような歌詞だ。しかし、二十一世紀のいま、おのおのの価値観、人生観、恋愛観が、年齢、世代、環境によってほんとうに多様化してしまっていて(ここ一、二年で急にそうなったわけではないが、事態が急速に変化していることは事実だ)、カンタンに多くの世代、多くの違うライフ・スタイルをもった人々の共感を得る歌詞というのが存在しにくくなってしまっている

一九八〇年代、松任谷由実と中島みゆきが描く恋愛観が、女性の恋愛観の双璧となっていた時代がある。ごくおおざっぱにいうと、この二人を原形として、その変化形が存在する程度だったのである。

しかし現在は、ほんとうにさまざまな恋愛観が独立して存在し、それぞれが少数の人々から支持されているように感じる。それぞれが恋愛観に関してはプチ・カリスマであり、小型の松任谷由実、小型の中島みゆきである。

たとえば、恋愛という、矛盾や分析不能の感情を多く含んだ現象を、 ストーリー化し、美化し、整理することなしに、そのままぶちまけるように歌った椎名林檎が大きな支持を得たのは、その象徴のひとつだろう。ここまでいくとプチ・カリスマなどということはできない。まさしく現代のカリスマである。

もうひとつ、技術によって詞が書ける時代ではまったくなくなってしまったということもいえる。

一九七〇年代までの、いわば「歌謡曲の時代」には、歌手というものは作詞家の書いた、万人の感情移入を引き起こすマジックをもった歌詞世界を、自分の価値観や意志は殺して、卓越した歌唱力で表現する、というのが本領だった。

聴衆も、歌手というのは歌を歌う人、 つまりパフォーマーとして理解して、歌い手自身が自分のメッセージを歌によって投げかける表現者、つまりアーティストなどではないと、無意識に理解していた。

いまでも、たとえばジャニーズ事務所所属アーティストや、モーニング娘。などのアイドルにたいして、作詞家は、聴衆から期待されるアイドルのキャラクターをそのまま投影した歌詞を提供している。メッセージ性とか音楽性はアイドルのイメージ戦略に沿ったものでなくてはならない。

プロのスキルをもって書かれていた歌詞というものは、多くのヒット・ソングとして存在しているが、昨今の主流は、シンガーが自分の歌う言葉は自分で書くというものであり、自分で歌詞を書いている人がほとんどだろう。歌のうまさだけで音楽業界に入り、入れば作詞家と作曲家が楽曲を提供してくれる、というプランを立てている人は少ないだろう。

なぜ、二十年ほどのあいだに流れが変わってしまったのだろうか。人に書いてもらった歌詞であるかぎり、それは本人と百パーセントイコールではない。アーティストの自己主張が強ければ強いほど、その歌を歌うことに違和感を感じるだろうし、それがリスナーに届くとき、たとえ完成度は高くても、嘘っぽく響くようになってしまうのではないだろうか。

リスナーがそのへんのことに気づきはじめたのではないだろうか。最近はアイドルですら、多少は稚拙でも自分で作詞した歌詞を採用するケースが増えてきている。そういった背景には、じつはこういった理由があるのである。

前置きが長くなってしまったが、それでは、どういうものが「いい歌詞」なのだろうか。その人のリアリティーが歌詞に反映されているかどうか、である。

前述の椎名林檎や奥田民生に代表されると思うのだが、意味不明な言葉の連続、のらりくらりで何を言いたいのか、テーマがわからない、けれども心に妙に残る歌詞というのがある。

それは、なぜかというとシンガーのリアリティーが込められているからだ。「歌いたいことなんてない」という自己主張が意味やメッセージをともなうという不思議な現象すら成り立つから、 ロックという表現方法はおもしろいと思うのである。

逆に、僕がこれはだめだと思う歌詞とは、「こういうことを歌えばいいのでは ウケるのでは」という発想のもとに作られたものだ。日本のロックも三十年以上の歴史で、いろんな日本語の歌詞のかたちができてきている。

それは音楽ジャンルやサウンドのスタイルと、かなりの関連性がある。ビジュアル系のデカダンスもの、フォーク系の前向きなメッセージ、R&B系のラブ&ピース、ヒップホップ系のオレタチ最高、ロックン・ロールのアウトサイダー気取り、といったところだろうか。

好きで聴いている音楽に影響されるのは誰しも避けられないが、いつのまにか歌詞についても、自分の思惑を超えて、なにか「こういうスタイルの音楽をやっているのだから、こういう歌詞がいいんじゃないか」と無意識のうちに洗脳されて作られているのではないか。これがいちばんおもしろくない。自分で本心から思ってもいないことを上滑りな言葉で飾って歌っても、それは作品としての説得力にはならない。

本心から発していないメッセージ・ソングを歌っても意味がないように、さも自分が体験したかのような、借りもののラブ・ソングもしらけるばかりなのである。

歌詞を書く才能というのはどういうものなのかを考えていくと、ふつうの感性しかもたない人間が通常、なんとなく見過ごしてしまったり、とくになにも感じないようなことに、人とは違う感慨をもつことができるという、そういったことなのではないか。たとえば荒井(現。松任谷)由実の「海を見ていた午後」で、「ソーダ水の中を貨物船が通る」というフレーズがある。

これは海が見える喫茶店で、ソーダが入ったグラス越しにふと海を行く船が見え、そういった風景がイメージされたということだが、ふつう、そんなふうにとらえる人はいないだろう。

しかし、それが歌詞となり、歌われてみると、そのシーンが、リスナーの脳裏に像を結び、なにか胸の奥が甘く、わきあがるような感情が起こる。

そんなポエジーあふれるシーンではないとしても、森高千里がアイドルとしてデビューして自身で歌詞を書くようになり、説教をする親父、のぞくスケベ、といったある種のたわいない、でも誰しも感じだろう日々の本音が、彼女の現実感のないキャラクターをとおすと、ポップ・アートのような表現として成立してしまったのは、それまでの女性シンガーの楽曲の歌詞では画期的だったのである。

彼女が大きな支持を得たのは、彼女がほんとうに感じたことだったからだといえる。多少稚拙でも、嘘っぽい作詞家の甘ったるいラブ・ソングより、本人の書いたリアリティーのあるもののほうが、彼女のキャラクターともあいまって、おもしろみと説得力につながった。

風景を見る。恋愛をして失恋する、なにか心を動かされる体験をする。そのときに人とは違う感じ方、見え方、聞き方ができることが、まず歌詞を書く才能なのではないか。抽象的だが「精神における感情の量が並みはずれて多い」ということなのかもしれないと思ったりもする。椎名林檎、などの書く歌詞は、ただ感受性が豊かであるなどという月並みな言い方では、その才能はとうていあらわしきれない。

よく通信教育などで作詞家コースというのを見かけることはあるが、そういったもので「設定は大胆に、ディテールはこまかく」というようなスキルを学ぶのも意味がないとは思わないが、それはたとえれば道具の使い方を学ぶくらいに思っていたほうがいい。クリエイティブであるものはすべて、大切なのは技術より感性だ。そのことは、作詞においてもいうまでもないことなのだ。

歌詞というのは詩ではない。メロディーがつき、バック・トラックにのり、その歌手の、歌唱が、さらにはシンガーのキャラクターがあってはじめて存在するものだ。 

つまり、ひとつの作品になったとき、その詞がそのはかの音楽の要素と不自然なくまざりあい、そのシンガーの嘘いつわりのない表現として完結し、聴き手にたいして説得力と音楽的感動を呼ばなければならない。

余談になるが、かつてメイン・ストリームだった歌謡曲と呼ばれる歌手、作詞家、作曲家、編曲家の共同作業で成り立っていた音楽は、 一部をのぞき少なくなっている。

つまり、素材となる、ただ歌がうまい、美人だ、美男子だというのを演出で作りあげた歌謡曲というものが、嘘っぽくしか映らなくなってしまったのである。それよりも時代が求めたのは、稚拙であっても、おとぎ話ではなくても、その歌詞を口にする人間が実際に感じたリアリティーなのだ。

いい歌詞だなと思うのは、言葉が借りものではないこと。それっぽい言葉を使って書かれ、 ロックっぽくても、リアリティーがなく、借りもののスタイルだけをもってきている楽曲ではなにもリスナーには訴えない。フリッパーズギターが「これはなにも歌うことがない、ということを歌っている」という評を読んだことがあるが、そこまでいけば表現として成り立っている。

安直なスタイルだけのメッセージ・ソングなど最悪だ。
いまの世の中は、音楽にしろ、ドラマにしろ、情報が過剰にあふれている。だから、「失恋したら、こんな気持ちになる」「ロックというのは、こういうメッセージをもつ」という固定観念が、知らず知らずのうちに刷り込まれ、無意識に借りものの言葉を自分の言葉と勘違いするのだろう。
象徴的なことだが、職業作詞家というのが業界には数えるほどしかいなくなってしまっている。

それはおそらくリスナーが、アーティストが描くファンタジーよりもアーティストが伝えるリアリティーを求めるようになってきたからだろう。

リアリティーというのは、自分の言葉のほうが作詞家の作品よりも稚拙だったり、ボキャブラリーが貧困だったとしても、その人の声や歌い方がメロディーやアレンジとあいまって、その人でしか表現できないものになることだ。その結果、音楽としての感動を与えるのだ。

自分が一人のリスナーに戻った場合、詞がすばらしいと思ってその作品が好きになり、その歌詞を聞くためにCDを聴くということはあまりない。

ただ、はっぴいえんど、荒井由実、原マスミ、友部正人、ゆらゆら帝国などを聴くとき、その歌詞のもつ世界観は目の前の景色を広げてくれるし、日本語がわかるリスナーでよかったという思いがあふれる。

歌詞というのは、字面を読むだけでは感動は伝えられない。人の声で歌われ、音楽といっしょになってはじめて歌詞になるのだ。また、たとえば恋愛について、考え方が時代とともに大きく変わっていくため、恋愛やそれにともなうセックス、結婚といったことの意味が、五年前の歌でも古くさく感じるときがある。

たとえば、 一九九〇年代のはじめごろまであった、バブルのころの価値観で書かれた歌などは、恥ずかしくて聴けたものではない。

ただ、人間というのはもっと根本にある時代や世代に関係なく共通した感情があるともいえる。それを描くのは大変むずかしいし、ヒット・ソングを狙うのであればむしろ時代とともに古びても、確信犯的に時代に同伴した歌詞を書くのもいいだろう。

時代を超えて生きる歌詞をもつアルバムとしては、荒井由実の『ミスリム』と『ひこうき雲』、そしてはっぴぃえんどの『風街ろまん』を、やはりあげたい。

「思ってもいないことを書くな」「既成のスタイルから入るな」。自分がほんとうに思ったこと、感じたことだけがリアリティーで、それを、いままで気づかなかった感情を新しい表し方で書けることが、歌詞の才能だと思う。