音楽学校について
ヨーロッパでは、音楽家は世襲の職業でした。日本の邦楽もそうですね。ですから親が子どもに音楽を教えたのです。たとえばハッハは音楽家一族でしたし、モーツァルトは父親が作曲家兼ヴァイオリニストでした。ベートーヴェンにしたって、かなり性格は破綻していましたが、父親は歌い手だったのです。

もしそういう環境にいなかった場合は、教会の附属施設である少年合唱団に預けられて音楽教育を施されたのです。ハイドンは半ば売られるようにしてウィーン少年合唱団に入り、そこで基礎的な音楽の力を身につけてから放校処分に遭い、作曲家ポルポラの鞄持ちをして諸国を遍歴したのでした。

ですが19世紀になって、音楽を学ぶ人の数が極端に増加すると、それだけでは対応し切れなくなります。この時代になってもなお、メンデルスゾーンのように大富豪の息子は、家に何人もの教師が出入りしていましたが、一般家庭ではそれは不可能です。そのためどうしても公的な教育機関が必要になり、ここに音楽学校が創立します。

最も早いのはパリの国立音楽院(コンセルヴァトワール)で、1795年に国民公会の命により開設されたものです。最初は音楽だけでなく舞踊や演劇も科目に含まれていました。大学ではないので、何歳でも受験・入学資格があります。

よく五歳にして入学した、などと音楽家の伝記に書いてありますが、天才的な子どもならそういうことも可能なのです。一般教養に当たる科目はありません。このためにそれらは別に身につけなければならないのです。

なら他の国、都市でもこれに倣って、続々と音楽学校が開校しました。
日本ではこれが、東京藝術大学の前身である東京音楽学校(1887年開校、ただしその前身の音楽取調掛は1879年設立)だったのです。

ただ、世界的に見ても、女性にはなかなか門戸が開かれませんでした。パリ国立音楽院にしても、声楽やピアノは開かれていましたが、作曲については20世紀の声を聞くまでは男性しか入学できませんでした

また、和声学の試験も1950年代までは男女が違う課題でではそれまで女性はどうしていたのかというと、修道院の中で宗教曲に従事するか、個人教授を頼むか(女性が男性の先生の家に行くことは道義上の問題があって、まずありえない)だったのです。わが国の衷星日楽学校も、男女が舞台で恋愛の真似事をすることは許可されず、オペラの授業が行なわれるのは、1903年の記念すべき「オルフォイス」日本初演から何と36年後の1939年を待たねばなりませんでした。

現在のような開かれた形になったのは、大学として再出発してからということになりますが、それでも昭和期は学内に外の人間が入り込むことを、文化祭を除いては嫌っていた感があります。

それが平成期に入ると、突然オープン・キャンパスを調い、大勢の市民たちを誘われら致しようとしています。町とともに発展する「我等の音大」は、現代にあるべき姿なのだと思います。


ソルフエージュについて
ソルフェージュとはまず聴音のことでした。ピアノで先生が弾く曲を書き取るのです。単旋律から始まって、複旋律(二声)、和声(四声)と進み、ときには記憶してから書く課題もあり、単音だけや和音だけの問題もありました。古くはこうした課題は、人間の声で歌える範囲で書かれていたようですが、現今ではその音域が広がり、ピアノ以外の楽器を用いることもあります。

次に初見と呼ばれる、直ちに歌う、弾くといった実技があります。楽譜は音楽の文章なので、見たらすぐ演奏に結び付けなくてはなりません。視奏は普通ピアノを用いますが、これは鍵盤に慣れていないと難しい。自分の専攻の楽器を使う場合もあります。

リズム打ち、読みもこの範晴に含まれるでしょう。聴音もそうですが、初見も自分一人で学習することはできません。お金をかけないで修得するには、友人と組んで行なう方法もあるでしょうが、聴音の場合は弾くたびに完璧な正確さを要求されます。また複旋律の場合は、ヒントとしてどこかのパートだけ際立たせて弾くといった技術も必要です。

いずれにせよ、自分を窮地に追い込む覚悟を持たなければなりません。また、拍を打つことが重要です。初見視奏の場合は連弾や伴奏などのアンサンブルを経験することも、上達に繋がります。学校に入ってから学ぶことになる人も多いでしょうが、ト音記号とへ音記号以外の音部記号(ハ音記号)にも慣れておくことは、移調や総譜を読むとき、特に古い音楽に携わるときに便利です。

現在ではこれ以外にも、初見合奏や楽曲分析など、実際の演奏や楽曲に関連付けた指導が行なわれていますが、こうした高度なソルフェージュでなければ、あなたが今習っているピアノの先生が教えてくださるはずです。あるいは作曲を勉強している学生さんでもいいでしょう。ただ一朝一夕に上達することではありませんから、なるべく時間を作ってくれる人を探しましょう。