ラフマニノフピアノ協奏曲第二番ハ短調
クラシック音楽の名曲が、映画の伴奏音楽として使われるケースは、意外と多い
たとえば、アメリカ映画の「さよならをもう一度」では、ブラームスの《交響曲第三番》の第三楽章イタリア映画の『ベニスに死す』では、マーラーの《交響曲第五番》の第四楽章、スウェーデン映画「みじかくも美しく燃え」では、モーツァルトの《ピアノ協奏曲第一二番》の第一楽章アメリカ映画「2001年宇宙の旅」では、リヒャルト・シュトラウスの交響詩《ツァラトゥストラはかく語りき》の冒頭の部分、そしてフランス映画「恋人たち」では、ブラームスの《弦楽六重奏曲第一番》の第二楽章などがそれぞれ使われ、見事な効果を上げている。

これらの曲は、いずれも映画の中で使われたおかげで、普段あまりクラシック音楽に縁のないような人たちの間でも大変親しまれ、人気が出たものばかりだが、戦後の映画音楽の中で、1945年につくられたイギリス映画「逢びき」に用いられた、ラフマニノフの《ピアノ協奏曲第二番》ほど成功した例というのも珍しい。

この映画は、まじめ一方の心の優しい夫にもの足りなさを感じていた貞淑な家庭の主婦が、外出先で偶然知り合った医師と恋に落ちるが、結局は結ばれることなく別れ、夫のもとに帰っていく、という内容のもので、この映画の主要な場面に流れる、ラフマニノフのあの哀愁を帯びたロマンティックな旋律は、お互いに愛し合いながらも別れていかなければならないという、男と女の切ない心の動きにぴったりと合っていた。この映画を見た人の中には、この曲が映画のために作曲されたと思った人も大勢いたようだが、実はこの曲が作曲されたのは、映画がつくられるよりも四十数年も前のことだったのである。

この《ピアノ協奏曲第二番》や《第三番》、そして放送のテーマ音楽として使われたことのある《パガニーニの主題による狂詩曲》などの作品で広く知られているセルゲィ・ラフマニノフは、今世紀前半に活躍したロシアの偉大なピアニスト兼作曲家であった。

彼は、1873年の4月2日に、ロシアのノヴゴロド県のオネーグに裕福な家庭の息子として生まれた。母はピアノがうまく、祖父は、ロシアでその後半生を過ごした夜想曲の創始者のジョン・フィールドに師事したというのがご自慢のアマチュア・ピアニストであった。だから、彼の体には音楽家の血が豊かに流れていたわけである。

そのように、音楽的に大変恵まれた環境に育った彼は、早くから音楽の才能を発揮して注目された。彼は母親からピアノの手ほどきを受け、10歳でペテルブルク音楽院に入学したが、系統だった勉強が嫌いだったために、12歳の時、進級試験に落第してしまった。しかし、ちょうどその頃、いとこのジロティが、リストのもとで研鎭を終えて帰国し、モスクワ音楽院で教鞭をとっていたので、その口ききでなんとかモスクワ音楽院に入学することができ、音楽の勉強を放棄せずにすんだ。

これに懲りたラフマニノフは、大変発奮し、猛勉強を重ねてぐんぐんと頭角を現わしていった。そして1891年の春、通常より1年早く、ピアノ科を優秀な成績で卒業し、さらに翌年、作曲科を金メダルを得て卒業した。かっての落第生転じて優等生となったのである。

彼の《ピアノ協奏曲第一番》は、音楽院を卒業する年に完成されたもので、この作品が発表されると、新聞に好意的な批評が掲載された。こうして彼は、作曲家としての輝かしい第一歩を踏み出したのだった。

彼は、ピアニストとして活躍するかたわら、次々と野心的な作品を発表し、ロシアの音楽界にラフマニノフ旋風を巻き起こしていったが、1897年に発表した大作《交響曲第一番》が、批評家たちから酷評を浴び、大きなショックを受けた。

この不評の原因は、作品そのものにあったのではなくて、初演の出来が大変悪かったからだといわれている。初演の指揮はグラズノフが受け持ったが、なぜか彼は、この作品の演奏に対して乗り気ではなく、練習に当たって一向に熱を入れなかったし、本番では、一説によると、酒気を帯びて指揮台に立ったという。その演奏は、最悪のものであったようだ。ラフマニノフは、その時のグラズノフの指揮について、次のように述べている。

「グラズノフほどの才能豊かな人間が、こうもひどい指揮をすることに私は驚いている!私はもはや指揮の技術については言うまい(それについて彼に求めるものは何もない)彼は指揮をしているとき、何も感じていないのだ。彼はまるで何もわかっていないかのようだ」

どんな名曲でも、初演の時にそのような扱いを受ければ、真価が認められるのは難しいであろう。ラフマニノフの《交響曲第一番》は、無残にもこうして闇に葬り去られることになった。彼の敬愛するチャイコフスキーのいくつかの作品と同じ運命をたどることになったのである。

そしてラフマニノフの場合は、初めての野心的な大作でこれを経験しただけに、その後遺症も深刻で、それ以来、完全に自信を喪失し、創作意欲を失ったのだった。つまり、強度のノイローゼになってしまったのである。
彼のこの強度のノイローゼは、約2年間続いた。そのあいだ彼はあらゆる療法を試みてみたが、いずれも失敗し、さっぱり効き目がなかった。

そこへ、救いの神として姿を現わしたのが、催眠療法の名医として知られていたニコライ・ダール博士であった。ラフマニノフは、友人から博士を紹介され、半信半疑ながら、ともかくも博士の治療を受けたところ、4ヵ月ぐらいで、さしもの重症のノイローゼがあとかたもなく治ってしまったのだった。もともと心理的な原因からきたノイローゼだけに、患者に暗示を与え、自信を回復させるという博士の療法が、ことによく効いたのであろう。

ラフマニノフは、こうして2年ぶりに作曲に対する自信を取り戻し、イタリアでたっぷりと英気を養ったあと、腰を据えて新作の作曲にとりかかった。これがこの《ピアノ協奏曲第二番》で、まず第一楽章から着手し、その年のうちに第一楽章と第三楽章を仕上げた。そして、全曲の完成を待たずに、この第二、第三楽章が1900年の12月にモスクワで演奏され、好評をもって迎えられたのだった。

この成功によって大いに気をよくしたラフマニノフにとって、あとは一瀉千里である。春までに残りの第1楽曲を仕上げ、全曲は、1901年の10月、モスクワのフィルハーモニー協会の演奏会で、ジロティの指揮でラフマニノフ自身がピアノ独奏を受け持って行なわれた。

この初演はもちろん大成功であった。初演に先立って行なわれたリハーサルに出席したタネーエフは、感動のあまり涙を流し、「これは素晴らしい!」とつぶやいたという。タネーエフが、そのような賞賛のことばを口にするのは大変珍しいことだといわれているから、いかにこの作品が、最初から人々に圧倒的な感動を与えたかがよくわかるであろう。

こうしてラフマニノフは、不死烏のように再生した。彼の前途は、再びバラ色に輝き始めたのである。彼は、この曲を感謝をこめてダール博士に捧げた。ダール博士こそ、彼の作曲家としての生命を救ってくれた大恩人だったからである。ラフマニノフは、生涯に4曲のピアノ協奏曲を作曲した。最も人気のあるのがこの《第二番》で、ついで《第三番》、《第四番》、《第一番》の順になるが、《第四番》と《第一番》はあまり演奏される機会がない。作曲されたのは、《第三番》が1909年の夏、そして《第四番》が1926年である。

このほか61歳の1934年の夏スイスで作曲された《パガニーニの主題による狂詩曲》もピアノとオーケストラのために書かれた作品で、《ピアノ協奏曲第二番》に劣らず人気がある。これらの作品は、いずれも、ラフマニノフ自身が演奏会で弾くために作曲したもので、独奏部に名人芸的技巧が要求されている。

ラフマニノフは、チャイコフスキーから直接教えを受けたことはなかったが、チャイコフスキーに深く傾倒していた。彼の作品を聴くと、そのチャイコフスキーとの精神的なつながりというものが強く感じられる。どの曲にもロシア的な杼情が色濃く表れているところなど、特にそうである。

ロシアの作曲家で同時に評論家としても有名だったアサフィエフが、かつてこう言ったことがある。
「ラフマニノフの音楽の中で最も重要なのは杼情性で、その杼情性は豊かでしなやかな旋律法によく表れている。そして、その旋律は、歌謡性、流動性、軽快さ、幅の広さといったものを持っているのが特色である」そうしたラフマニノフの音楽特性が最もよく発揮されているのが、この《ピアノ協奏曲第二番》であろう。アサフィエフはまた、「ラフマニノフの杼情は、チャイコフスキーの杼情を源泉にしている」と述べているが、第1楽章の第一主題や第三楽章の第二主題などには、特にそうした気分がよく表れている。

聴き手の心に強く訴えかけてくるあの杼情的な親しみやすい旋律や、ロシア的な幅の広い旋律は、ロシアの作曲家でなければ、絶対に書けないものである。ロシアに革命が起きた時、多くのすぐれた音楽家たちが国外に亡命したが、ラフマニノフもその一人で、プロコフィエフとは違って、生涯に二度と故国の土を踏むことはなかった。

亡命後の彼は、アメリカを中心にピアニスト兼作曲家として広く活躍し、国際的な名声を得たが、それと引き換えに、彼の貴重な財産であるロシア的特質を次第に失っていった。《ピアノ協奏曲第二番》や《第三番》では、あれほどくっきりと感じられたロシアの土の匂いが、《第四番》ではもはや稀薄になっている。彼も、そういう意味では、故国を失った悲劇の音楽家の一人であったといえるだろう。
 



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