オーケストラにおける「指揮者の存在」
身のまわりに遍在する音楽に寄り添って生きる道とは、実際、どのような生き方であろうか。それがわかれば、「生きる」ことの顕現に近づくことができるように思える。

たとえば、オーケストラにおける「指揮者の存在」について考えることは、一つのアプローチになるかもしれない。

指揮者の存在は、謎だった。
オーケストラにおけるすべての音をコントロールすることは不可能だ。同時に、完成したハーモニーの、どこまでが指揮者の果たした役割なのかを証明するのも難しい。

しかし、同じオーケストラあるいは曲でも、指揮者によって演奏がドラマティックにもなれば、初々しくもなる。音も色も変わる。名演奏と呼ばれるものが、指揮者によって成立していることは確かだ。

基本的に、指揮者の存在についての問いは、正解を一意に求めることができない「不良設定問題」である。なんらかの制限を設けなければ、具体的な答えは得られない。

指揮者の大野和士さんは、次のようにおっしゃっていた。
「理想の指揮者は、彫像のように指揮台に立っているだけで、オーケストラの奏でる音楽を変えることができる」

究極の指揮者は、棒を振らない。ただ、そこにいるだけで、感化作用があるのだ。ハーモニーの一分子として、演奏している音楽家たちの中心に立ち、彼らを感化しながらも音楽家自身による自発的な表現を促す存在。それが、指揮者だということになる。

同じく指揮者である小澤征爾さんは、あるコンサートのリハーサルで、しきりにオケのメンバーに伝えていた。「もっと、母音を響かせて!」母音を響かせる。小澤さん自身が感じている音のクオリアを、能動的に生成するための言葉なのであろう。彼の中の感性的言語を、運動的言語に変換しているのだ。

これこそが、指揮者の能力の一つなのか。その時は、いつの間にか、オーケストラが奏でるハーモニーの中に、「母音」の存在を探していた。深く納得できるような気もすれば、探しても探しても、そのまた奥があるような気もした。

それでも私は、確かに、探していた。受動的な行為のみでは満足できないのが、人間の脳である。主体的な発見こそが、喜びをもたらす。おそらく、指揮者自身も把握していないなにかを発見した時、演奏家は最も快感を得られるのではないだろうか。

もちろん、演奏をつかさどるのは、他の誰でもなく指揮者である。自分自身も常にわからないなにかを追いかけながら、新しい演奏に奏者を向かわせるのが、指揮者の究極の役割だといえるのではないか。指揮者が弾かせるのではない。奏者たちが、指揮者を前にして、自ずから弾くのだ。

脳科学の視点で考えると、本人自身もその「なにか」を自覚していない時に、最も感化作用が高まるといえる。そして、これが一番肝心なところだが、なにを「なにか」と見なすかは、人それぞれによって違う。

答えが一つに定まらないから、相手や状況によって生み出されてくるものが違う。不良設定問題であるがゆえの自律性が、事態を積極的なものにする。これこそが生の本質である。
 



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