ヨハン・シュトラウス二世とシュトラウス一家のワルツ音楽
19世紀は、自由の世紀とも踊る世紀とも呼ばれている。フランス大革命によって起こった自由思想の波は、ものすごい勢いでヨーロッパ各国に広がっていき、そのうえ、世界最強を誇るナポレオン軍の大あばれが続いた。19世紀初頭の封建主義諸国の屋台骨はこうして大きく揺さぶられるのである。

ナポレオンの全盛時代は、モスクワ遠征の行なわれた1812年頃まで続くが、このロシア進攻作戦の失敗から運命に大きくひびが入り、以後、坂道を転げ落ちるようにして転落の一途をたどる。ナポレオンが失脚してエルバ島に流されたのは、それから2年後の1814年のことであった。

この年の9月、ポスト・ナポレオン問題を討議するために、各国の首脳を集めて開催されたのが、歴史上あまりにも有名なウィーン会議で、戦別の音楽映画「会議は踊る」は、このウィーン会議を背景として物語が進行する。この時ウィーンに集まったのは、ロシア皇帝アレクサンドル一世(この映画の主人公)と全権ネッセルローデ、プロシア国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世と全権ハイデルベルク、イギリスのウェリントン卿と全権カッスルリー外相、それに敗戦国フランスのタレイラン外相で、地元オーストリアの政治家メッテルニヒ首相が議長をつとめた。

このように書くと、いかにも、今はやりのサミットの会議のように考える人もいるかもしれないが、決してそうした実務的なものではなく、お祭り騒ぎに近いものであったといわれている。会議は、1814年の9月から翌年の6月まで、延々9ヵ月にわたって行なわれたが、その間、まともな会議はほとんど開かれることなく、各国の代表とその随員たちは、宴会と舞踏会にうつつを抜かしていた。まさに、「会議は踊る、されど会議は進まず」というありさまだったのである。

なぜ、ウィーン会議がそのように際限なく引き延ばされ、関係者をダンス・パーティに入りびたりにする作戦がとられたのか?理由は簡単だ。すべては、メッテルニヒの深謀遠慮で、彼は会議を表向きだけ開き、自国に都合よく事を運ぼうと企んだのである。
ウィーン会議の時、各国の首脳たちがいい気になって踊り狂っていたのは、その頃、猛烈な勢いで流行していたワルツであった。

ナポレオンが、大帝国の建設を夢みてヨーロッパ中を暴れまわっていた頃、妙なことに、ウィーンには立派なダンス・ホールが次々に建設され、ウィーンの市民は、ワルツがなければ夜も日も明けないといったありさまだった。その熱狂ぶりは、多くの文献で伝えられているが、たとえば、モーツァルトとも親交のあった歌手のマイケル・ケリーは、次のように述べている。

「ウィーンの婦人たちのダンス熱は大変なもので、どんなことも、その楽しみをやめさせることはできない。どうしても家にじっとしていられない妊婦のためには、あらゆる便宜をととのえた特別室が用意されているほどである。もし、不幸にして、ここで赤ん坊が生まれるような時には、それに必要なものが全部そろっているというわけだ…」

また、ヤーコプはこのように警告している。
「わたしの立場からいえば、夜の10時から朝の7時までもワルツを踊るなどということは、一種の狂乱の連続であり、まず、目と耳とを疲れさせるか、それ以上に悪い結果の伴うことはいうまでもない……」
さらに次のような例もある。1809年のある夜、なんとウィーン市民の約4分の1の人たちが、踊り明かしたというのだ。ウィーンっ子たちの踊り好きは有名だが、なぜ、ウィンナ・ワルツがこれほど大衆にもてたのか?

理由はおおよそ3つ考えられる。
第一は当時の世相である。オーストリアの国民は、相次ぐ戦争で疲労しきっていた(ウィーンは、1805年と1809年の、2度にわたってナポレオン軍に占領されている)。また、毎日、鉛のような重い空気に押しつぶされるような思いをしていた。そうした空気を吹き飛ばすには、明朗なワルツや軽快なポルカといったものが、どうしても必要だったのである。

第二は、反動政治家メッテルニヒの政策で、彼は、このウィンナ・ワルツの流行をさらにあおりたて、国民をバカのように踊らせることによって、革新勢力の伸張を抑え込もうとはかったのだ、といわれている。ある歴史家はこう言っている。「ウィーンに、血で血を洗う革命が起こらなかったのは、ひとえにシュトラウスのワルツのおかげだった」と。実際は、シュトラウス親子がワルツを書くようになるのは、もう少しあとのことだが、このことばは全然見当はずれではない。当時のウィーンは、革命の勃発する寸前、それこそ一触即発の状態だったからである。

第三は、ほかでもないワルツの音楽と踊りそのものが楽しく、セックス・アピールにあふれていたためである。音楽はともかくとして、その踊りは、当時としては大変革新的なものであった。17、8世紀頃のヨーロッパを舞台とした映画やテレビ・ドラマなどをご覧になればわかるように、ワルツ以前の踊りというのは、いたってお上品なもので、男女は常に一定の間隔を保ち、体が触れ合うのは指の先ぐらいなものだったが、ワルツでは完全に両者が抱き合う恰好で踊られる。しかも動きが激しく、息をはずませながら急速に回転するように踊られるので、女性のスカート(当時はもちろん床まで届くロング・スカートが多かった)が、ちょうどパラシュートのように広がり、これは、見物する男性たちにとっても、まことにご機嫌なことであったに違いない。

踊って楽しく、見て楽しい。それがワルツの大きな魅力であった。このようにしてワルツは、それこそ煉原の火のように広がったのである。
ウインナ・ワルツといえば、反射的に口をついて出てくるのが、ヨハン・シュトラウスという名前である。そして、このヨハン・シュトラウスという名前の音楽家は、あなたもご存じだと思うが、二人いた。ワルツの父ヨハンと、その息子のワルツ王ヨハンである。

ワルツの父ヨハンの方は、ヨーゼフ・ランナーとともにウィンナ・ワルツを隆盛に導いた功労者で、「ランナーはボルドー産のワイン、シュトラウスはシャンパンの味、今はもうあんな楽しいものはなくなった」とメッテルニヒが述べているのは、父親のヨハンの方である。もっとも、ウィーン会議の時には、二人ともまだ子どもで、父ヨハンが10歳、ランナーは13歳であった。だから、この時ヨハンのワルツが演奏された、というふうにどこかに書かれているとしたら、それは真っ赤なウソということになる。

ワルツの父ヨハンが、ランナーと出会ったのは、ウィーン会議から5年ほどあとのことで、その頃の二人はきわめて貧乏だったが、夢だけはとてつもなく大きく、「今にみろ、このウィーンを、いやヨーロッパ中の人たちを、このオレたちが踊らせてみせる」と胸を張っていた。二人は最初、力を合わせて演奏活動を行なっていたが、やがて仲違いし、それぞれの道を歩き始める。これが父ヨハンの21歳の時で、ちょうどその時に生まれたのが、長男のワルツ王ヨハン・シュトラウスである。それから2年後に、次男のヨーゼフが生まれ、さらに8年後に三男のエドゥアルトが生まれた。

父ヨハンは、たちまちライバルのランナーを追い抜いてめきめきと名をあげ、エドゥアルトの生まれた1835年には、ウィーンだけでなくヨーロッパ音楽界をリードする花形音楽家となった。ところが、そうした彼の前に、忽然と強敵が現われる。
その強敵とは、ほかならぬ長男のヨハンだった。1844年、父ヨハンが40歳、息子ヨハンが19歳の時のことである。

どうして彼は、血肉を分けた息子のヨハンを敵にまわさなければならなかったのか?これには複雑な家庭の事情が絡んでいた。
父ヨハンは、初め子どもたちが音楽家になることには大反対であった。なぜなら、ウィーンの居酒屋の息子として生まれ、数々の辛酸をなめて有名になった彼は、音装永という職業が、いかに経済的に不安定で苦労が多いかということを、身をもって知っていたからだ。しかし、カエルの子はカエルで、息子ヨハンは、父親の反対を無視してひそかにヴァイオリンを習い、作曲を学んで、父と同じようにワルツの作曲家兼指揮者として立つ日のことを夢みていたのである。息子ヨハンが19歳の時、父親はある女性と深い仲になり、家庭を捨ててかえりみなくなった。「いまこそチャンスだ」、そう考えた彼は、ウィーンの盛り場にあるレストランのドンマイヤー亭で旗揚げ公演を行なうことにした。

1844年の10月15日の午後、ドンマイヤー亭は噂を聞いて集まってきた人たちでいっぱいになった。定刻の夕方6時きっかりに、さっそうと登場した息子ヨハンの指揮で、まず皮切りに、当時人気絶頂の作曲家オベールのオペラ《ポルティチのおし娘》序曲が演奏された。これでまずぐっときた聴衆に、続いて披露されたのは、息子ヨハンの作曲したワルツ《どうぞごひいきに》であった。この曲の最初の一小節が鳴り出した瞬間、聴衆の心は、完全に息子ヨハンの音楽の魅力のとりことなってしまったのである。ついで《歓喜のポルカ》、《初舞台のカドリーュ》、《記念の詩》などが次々に繰り出され、聴衆は、そのたびごとに惜しみない拍手を送った。

その夜、プログラムの最後に演奏されたのは、父ヨハンの《ローレライ=ラインの歌》であった。聴衆は驚いた。まさか息子が、自分を捨てた父親の作品を演奏しようなどとは、夢にも思わなかったからである。聴衆は感激し、泣いた。こうして息子ョハンは、音楽だけでなしに、愛情の面でも父親に勝ったのである。

それからまもなく、ウィーンっ子たちは、こうささやくようになった。
「おやすみなさいランナー!こんばんは父シュトラウス!おはよう息子シュトラウス!」
こうして始まったシュトラウス父子の音楽合戦は、1849年の9月に突然幕を閉じる。父ヨハンが猩紅熱にかかり、45歳という働き盛りで世を去ったからである。父ヨハン亡きあと、息子ヨハンは、父のオーケストラを自分のオーケストラに吸収し、名実ともに、ワルツ王として思う存分に腕を振るうのである。

ヨハン・シュトラウス二世の兄弟は、いずれもウィンナ・ワルツに偉大な足跡を残した。長兄のワルツ王ヨハンは、《美しく青きドナウ》、《ウィーンの森の物語》、《皇帝円舞曲》などの名作を含めて500曲以上のワルツを作曲したし、二番目のヨーゼフは、数は283曲と兄ヨハンよりもぐっと少ないが、「もし長生きしていたら、兄弟の中では、いちばん立派な仕事をしていただろう」といわれ、ワルツ《天体の音楽》や、《オーストリアの村つばめ》、《鍛冶屋のポルカ》などの傑作を生み出した。そして末弟のエドゥアルトも、ポルカ《テープは切られた》をはじめ、約300曲の舞曲を書いている

シュトラウス一家の墓は、すべてウィーンの中央墓地第32区Aにあるが、中でも、ワルツ王ヨハンの墓は、大作曲家ベートーヴェンやシューベルト、ブラームスらの墓と肩を並べるようにして立っている。
 



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