ブラームス交響曲第四番ホ短調
1. ブラームスは、1833年の5月7日に、市の中心に近いシュペック通り60番地のアパートで生まれた。
ブラームスは、29歳の時にウィーンで活躍を始め、以後、死ぬまでの35年間生活の根拠をウィーンにおいていたが、彼の心は最後まで故郷ハンブルクを忘れることがなかったのである。

ブラームスは、生涯に4曲の交響曲を作曲した。一般には《第一番》が広く知られているが、ブラームスらしい味の最も強く出ているのは、彼が52歳、1885年に完成した《第四番ホ短調》であろう。

この曲を作曲した頃のブラームスは、すでに世界のブラームスとして、押しも押されもしない存在になっていたが、ベートーヴェンと同じく、生涯を独身で通したので、家庭的にはまったく孤独であった。そしてこの頃から、親しい友人たちとの別離や死別を通じ、人生の秋というものをしみじみと味わうのである。
1878年から82年にかけて、ブラームスは、親しい知人や友人を何人も失っている。

まず、78年には、長年の忠実な友人だった指揮者のヘルマン・レヴィと喧嘩別れしているし、一時は、クララ・シューマンとの間の友情にも影がさした。これは、クララの息子のフェリックスが、その頃、リューマチと神経痛の発作をしばしば起こし、病状が思わしくなかったために、クララがヒステリックになっていたからだともいわれているが、そのフェリックスは1879年に24歳で世を去り、翌80年には、親友の画家のフォイエルバッハがヴェネッィアで死んでいる。

そして1882年の秋には、親しくしていた音楽学者のノッテボームが結核で亡くなった。このノッテボームは、ベートーヴェンの研究で有名な人だが、遺族はその葬式代も出せないほど困っていたので、ブラームスが費用を負担したといわれている。

このように、短い期間に相次いで親しい人たちがブラームスの身辺から消えていったが、当時彼にとっても最もショックだったのは、二十数年来の友人の大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムと数年間にわたり絶交状態となったことであろう。原因は、ブラームスがヨアヒム夫妻の家庭不和に巻き込まれたためで、いったんヒビが入った二人の友情は、和解が成立したあとも、完全には元に戻らなかった。

ガイリンガーによると、ブラームスは、交友関係について、一種の運命論的な考えを持っていたという。彼は、誤解から友人と不仲になっても、自分の方からすすんでその誤解を解こうとは決してしなかった。そのため、あたら失わなくともすむ友人まで失う結果となったようだ。

2.ヨアヒムの場合などそのよい例だが、そのヨアヒムとの仲たがいと相前後して、ブラームスは新しい友情を獲得している。それは、1881年から始まった、大指揮者のハンス・フォン・ビューローとの交わりである。このビューローとの交友は、いろいろとブラームスに収穫をもたらした。ビューローは、当時、マイニンゲンの宮廷指揮者をつとめていたが、彼が厳格な訓練をほどこしてヨーロッパ有数の管弦楽団に育てあげたマイニンゲンの宮廷オーケストラを、ブラームスの新作の試演のために自由に使わせてくれたからである。

ビューローが、ブラームスの〈交響曲第一番》のことを、ベートーヴェンの〈第九番》に続く傑作という意味をこめて第10番と呼んだことはあまりにも有名だが、そのように、ブラームスの才能にすっかり惚れ込んでいたビューローは、機会あるごとにブラームスの作品を取り上げ、その普及につとめている。ブラームスの交響曲の中では、ほかの3曲にくらべて必ずしも口当たりの良くないこの《第四番》が、最初からその真価を発揮することができたのも、そうしたビューローの好意と熱意によるところが大きかったといわれている。

その頃ブラームスは、夏になると避暑地に出かけ、そこで大作の創作に没頭するのをならわしとしていたが、1883年の夏、ヴィースバーデンで《交響曲第三番》を書きあげた彼は、1884年と翌年の夏にはオーストリアのシュタイアーマーク地方のミュルッッーシュラークに滞在し、《第四番》の作曲に専念した。

華譜は1885五年の夏に完成したが、その完成近くに、ブラームスの借りている家の近所で火事があった。火はあっという間に燃え広がり、ブラームスの部屋も煙に包まれてしまった。

普通の人間なら、ここで何をおいても原稿の安全をはかりたくなるところである。ところが、ブラームスは、その大事な原稿を部屋に置き去りにしたまま、みなと一緒に消火活動にたずさわり、周囲の人たちがどんなにすすめても、自分の部屋に戻ろうとはしなかった。

結局、原稿は危機一髪のところで、無事友人の手によって運び出されたが、ブラームスはあとで、自分よりも恵まれない人を助けるのが先決だ、と述べたという。自分の苦心の結晶が灰になるかもしれないときに、まずそれよりも隣人を助けよう、というのは、凡人にはとうていマネのできない行動である。この名作が誕生した陰に、こうした美談が秘められていたことを忘れることはできない

ところでブラームスは、この曲を作曲している時、ビューローに宛てて、次のような手紙を書いている。
「わたしは、この曲がこの地方の気候のような味がするので、実は心配しているところです。」

しかし、ブラームスのその心配は杞憂であった。その年の10月、マイニンゲンの宮廷劇場で、ブラームス自身の指揮で行なわれた初演は大成功で、その後続けざまに11回も各地で上演されたからである。すっかり自信を持ったブラームスは、みずからもたびたびこの曲を指揮したが、プログラムを組む時、この曲の前にはいかなる曲をも置かせなかったという。

この曲を聴いたビューローは、「この曲はとび抜けている。独創的で、新鮮で、鉄のような個性を持っている。そして、驚嘆すべきエネルギーが最初から最後まで息づいている……」と述べているが、たしかに、ブラームスの4曲の交響曲の中では、最も創意にあふれた作品といってよいだろう。

たとえば、終わりの第四楽章では、通常のソナタ形式の代わりに、バッハ以後、あまり使われなくなっていた古い変奏曲の形式のパッサカリアを用いて曲を盛りあげているし、また、第一楽章には、教会音階のフリギア旋法が使われ、これまでの三つの交響曲よりもさらに一段と古典的な形式や気分を尊重する姿勢が、はっきりと表れている。しかし、それでいながら、全体から受ける感じは決して古くさいものではなく、形式と内容とが潭然一体となって、曲のロマンティックな気分を盛りあげている。

《第一番》では、彼の目標としたベートーヴェンを強く意識した気負いのようなものが見られるが、ここではそうしたものは一切影をひそめ、交響曲という形式を自在に扱った、ブラームス独自の世界がつくりあげられている。新古典主義者としての彼の、いわば総決算に当たるのが、この曲といってよいだろう。

何ごとかを切々と訴えているかのような、俗に溜め息のモティーフと呼ばれている、哀愁を帯びた第1楽章の第一主題ほど人の心を打つ旋律も少ないが、チェロでしみじみと奏される第1楽章の第二主題も、大変美しい。恩師シューマンの妻クララを愛するがゆえに、ついに生涯独身で通したブラームスのクララヘの思いが感じられる、「いみじくも、やさしい歌」である。

やはりこれは、ブラームスのように、思いが内へ内へとこもるようなタイプの作曲家でなければ書けない音楽である。ブラームスは、死の床に横たわっている時、ある人の質問に次のように答えたという。
「なに、わたしの作品の中でどの曲が好きかって?そりゃ、一番最後に聴いた作品さ」

その最後に聴いた作品こそ、それより1ヵ月ほど前に、ウィーン・フィルハーモニーの演奏会で演奏されたこの《交響曲第四番》だったのである。
ブラームスは、1897年の4月3日、64年の生涯を閉じた。ハンブルクの人たちは、その悲しい知らせに接すると、こぞって弔旗をかかげ、その死を悼んだという。


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