マーラー交響曲《大地の歌》
1. 1910年9月12日、この日は交響曲作曲家マーラーが、勝利の栄冠を手にした記念すべき日となった。
彼が1906年の夏8週間を費やして書きあげた《交響曲第8番》は、俗に千人の交響曲と呼ばれているほど、大編成のオーケストラと多人数の合唱が要求されるが、その《交響曲第8番》が、マーラー自身の指揮で、ミュンヘンで初演され、大成功を収めたからである。

マーラーの未亡人アルマは、その時のことを、次のように述べている。
「マーラーが指揮台に現われると、満場の聴衆は一斉に起立し、後は水を打ったように静まり返った。それは、およそこれまでに一人の芸術家の受けた最も感動的な敬意の表明であった。

桟敷の一つに座っていた私は、興奮の余り気を失いそうだった」
演奏が終わってからの聴衆の熱狂ぶりは大変なもので、マーラーは、30分以上も指揮台を下りることができなかったという。彼のすぐれた評伝を書いたリヒャルト・シュペヒトは、これに関して、次のような興味ある挿話を伝えている。

彼のそばで、この演奏を聴いていた一人の若い音楽家が、最初のうちは、みなと一緒になって熱狂して手を叩き、歓声を上げていたが、突然、顔面蒼白になってそれを止め、震えながら、「ああ、この人は長いことないな」と独り言を言ったというのである。驚いたシュペヒトは、どうしてそんな不吉なことを言うのか、とその青年に詰め寄った。

すると彼は、悲しげに、「あの人の目を見てごらんなさい。人生の勝利者で、新しい勝利に向かって進んで行く人は、あんな目をしているものではありません。あれは、死に神にとりつかれている人の目ですよ」と答えたという。

いみじくも、この青年の直感は当たっていた。この頃のマーラーは、絶えず死の恐怖と闘っていたし、挫折感にさいなまれてもいたのである。しかし、マーラーの場合、人生や死の問題に寄せる関心の強さは、彼の晩年にのみ見られるものではなかった。

18歳の時から、マーラーを師と仰いだ大指揮者のプルーノ・ワルターは、「マーラーが考え、話し、読み、作曲したことはすべて根底において「いずこより、いずこへ、なんのために」という問題を巡っていた」と述べているが、早くからショーペンハウアーの哲学に親しんでいたマーラーにとって、人生や死の問題は、片時も彼の頭から離れたことはなかったのである。

マーラーは、1860年の7月7日、現在はチェコ領となっている、オーストリアのカリシユトという小さな町で、醸造工場主の息子として生まれた。父と母との間は、いつもしっくりとせず、14人(12人という説もある)兄弟中、6人は病死、1人は事故死、1人は自殺した。そして、両親も彼の若い頃、亡くなっている。

マーラーは、母親に深い愛情を感じていたが、母のマリーエには心臓の持病があり、その体質は彼に遺伝し、マーラーの人生の最後の数年間は、彼もまた、母と同じく心臓疾患のために苦しむことになるのである。そうした彼が、絶えず死というものを意識し、人生とは何か、という疑問を常に抱いていたのは、当然であろう。

マーラーは、生涯に10曲(未完の《第10番》を加えると11曲)の交響曲を書いたが、1人の青年が、運命と闘い、そして倒れる姿を音楽化した《第一番》をはじめ、死と永遠性に対する問いかけを行なった《第二番》など、それらは、一つとして、そうした彼の人生についての真剣な態度の表れていないものはない
マーラーは、愛妻アルマに向かって、よくこう言ったという。

「きみはしあわせだ。〈光と喜びの中から〉生まれ、軽やかな足どりで人生を歩くことができる。きみには暗い過去も、患わしい家族もつきまとっていない。だが、私は、今までずっと重い足を引きずって歩いてきた。粘土の固まりをくっつけてね」
また、しばしば彼はこうも言っていたという。
「控え目な人間は大きらいだ。万事やり過ぎるくらいでなくちゃ!だから、彼の人生は絶えざる闘いの連続であった。芸術のためにはいっさい妥協をせず、相手の思惑など少しも意に介さなかったから、行く先々で、彼は敵をつくった。

彼が1897年から1907年まで、ウィーン宮廷歌劇場に音楽監督として君臨し、比類のない業績を上げながら、そこから追われたのも、彼のそうした一徹な性格が、敵をつくったからであった。1907年、それまで10年間つとめあげたウィーン宮廷歌劇場を追われるようにして辞任したのを皮切りに、長女マリアの急死、そしてその後、マーラーを診察した医師からの先天性両弁膜疾患の宣告。マーラーの家庭の幸福は、音を立てて崩壊し始めたのだった。

その年の暮れ、彼は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との自作の《交響曲第2番》の演奏を最後に、ウィーンと決別した。ウィーンを去ったマーラーには、新大陸アメリカでの仕事が待っていた。アメリカの人たちはみな親切だった。マーラーは尊敬され、彼の指揮はいたるところで称讃された。

傷心の彼を慰めてくれたのは、妻アルマの亡くなった父の親友で、当時宮中顧問官をしていたテオバルト・ポルラクから贈られた訳詩集「支那の笛」であった。このポルラクは、マーラーの才能を愛し、彼の作曲意欲をそそるような詩を、いろいろと探し出してきてはマーラーに届けていたのである。

『支那の笛』は、7世紀から9世紀にかけて活躍した中国の詩人、李太白、王維、孟浩然といった人たちの詩を、ハンス・ベートゲが手を加え、ドイツ語に訳したもので、マーラーは、この訳詩集にすっかり心を奪われた。なぜかというと、人生の哀歓をうたいあげた、この詩集の柱となっている東洋的な思想は、当時のマーラーの心境をそっくりそのまま鏡に映したようなものだったからである。この詩集の中には、酒をたたえたものもあれば、青春の喜びをうたったものもある。しかし、全体を貫くものは、人生に対する諦観であった。

アルマによると、マーラーは最初、この詩集をもとに、《さすらう若人の歌》や《亡き子をしのぶ歌》のような、オーケストラ伴奏つきの歌曲を書こうと考えていたという。ところが、仕事を進めていくうちに、次第に規模が大きくなり、結局、交響曲となったのである。

作曲は、マーラーがウィーンを去る以前から着手されていたが、大半は1908年の夏行なわれ、その年の秋完成した。時に彼は48歳、死はその3年後に迫っていた。
ところで、音楽家には縁起をかつぐ人が多い。マーラーもその一人であった。ベートーヴェンもブルックナーも、交響曲は「第9番」までしか書けなかった。マーラーは、そのことをひどく気にしていたらしく、本当は彼の9番目の交響曲に当たるこの《大地の歌》に番号をつけることをやめ、《大地の歌、テノールとアルト(またはバリトン)と管弦楽のための交響曲》という題名をつけて発表したのだった。
そして、《交響曲第9番》にかかっていた時、マーラーはアルマに、「これは本当は〈第10番〉なんだ。《大地の歌》がわたしの〈9番〉だからね」と言ったという。そのあと《交響曲第10番》を作曲している時、「さあ、これで危険は去ったわけだ」と言っていたということだが、ついに、その《第10番》を完成することができないまま、世を去った。やはり、この「9」という数字は、マーラーにとっても、運命的な数字だったのである。

2. それはさておき、マーラーは、生前ついにこの《大地の歌》の音を聴くことはできなかった。彼は、この曲の初演を愛弟子のワルターに任せたが、ワルターは、この曲を知った時の感動を、回想録の中でこう述べている。

「次にウィーンで会ったとき、私は下調べのために《大地の歌》の総譜を渡された。新しい作品を彼自身が初演しないのは、これが初めてであった。おそらく興奮を恐れたのであろう。私はこの曲を研究し、またとなく情熱的で、苦渋で、諦念にあふれ、しかも人を祝福する、別離と消滅のこの響き、死神の手に触れられた者のこの最後の告白とともに、この上なく恐ろしい感動の時を過ごした」ここで、マーラー晩年の魂の害ともいうべきこの《大地の歌》の内容に触れてみよう。

マーラーは、巨大なシンフォニストであったが、その根底はあくまでも歌曲にあった。それは、未完のものも含めて全11曲の交響曲のうち、5曲までに人声を入れていることからも明らかであろう。この《大地の歌》は、そうした彼の姿勢が最も強く表れたもので、6つの楽章のうち、第1、3、5楽章にはテノール独唱が、第2、4、6楽章にはアルト(またはバリトン)独唱が入っている。

第1楽章は、李太白の詩による〈大地の哀愁をうたう酒の歌〉で、テノールの歌う「生は暗く、死もまた暗い」ということばが、この楽章の基調をなしている。全体は、三つの部分からできており、明暗が交錯している。酒の力で死の恐ろしさを忘れようというもので、オーケストラの部分の迫力はマーラーの全作品中でも、ずば抜けたものといってよい。

第二楽章は、アルトの独唱による銭起の作といわれている詩をもとにした〈秋に寂しきもの〉で、秋の寂しさと孤独感をうたっている。この憂篭でロマンティックな情緒は、いかにもマーラー的だ。

第三楽章は、李太白の詩による〈青春について〉で第二楽章が通常の交響曲の緩徐楽章なら、ここはスケルツォ楽章といってよい。池の中に建っているあずま屋で酒を酌みかわしながら人生を語り、詩を書く人たちの楽しい集いの有様を、テノールが歌う。五音音階をたくみに用いた、魅力的な一幅の音画である。

第四楽章は、同じく李太白の詩による〈美について〉で、アルト独唱で歌われる。ここは、岸辺で花を摘んだり、からかい合ったり、叫び合ったりしている娘たちと、駿馬を乗りまわしている少年たちの姿を歌ったもので、舞曲調のリズムを持った爽快な気分の楽章である。

第五楽章は、〈春に酔える者〉で、詩は同じく李太白である。「もし、人生が一片の夢にすぎないとしたら、努力や苦労をしたところで何のかいがあろう。酔いつぶれるまで酒を飲もう。酔って、寝て、眠りから覚めた時、小鳥は春の来たことを告げてくれる。しかし、わたしにとって春はどうでもよいのだ。酔うにまかせておいておくれ!」とテノールが歌う、陶酔的な気分を持った楽章で、小鳥の声などが描写されている。

第六楽章は、全曲の約半分を占める、長大な〈告別〉である。詩は孟浩然と王維。暗いタムタムの響き、それに続くオーボエの哀愁を帯びた旋律、こうした印象的な部分から始まるこの告別は、次第に暮れていき、やがて眠りにつく大地と親しい友とに別れを告げる者の、惜別の情が歌われる。ここは、長さだけではなく、内容のうえからいっても、この曲の中心をなす楽章で、マーラーの最も言いたいと思うことがいっぱいに詰まっている。特にオーケストラによる長い間奏部をへて後半に入ってからが圧巻だ。

「友よ、この世の幸福はわたしには与えられなかった。わたしがどこへ行くかって?わたしの孤独な魂に憩いを求めるために、山にさまよい入るのだ。わたしは故郷を求めてさまよう。わたしの場所を求めて。しかし、もう遠くへ行くことはあるまい。わたしの心は澄み、その時をじっと待っている」と独唱者が歌うのを聴くと、当時のマーラーの心情に直接触れる思いがして、わたしはいつも、胸が熱くなってくるのである。

マーラーはよくこう言っていたという。
「わたしは、三重の意味で故郷のない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人として、ドイツ人の間ではオーストリア人として、そして、全世界の中ではユダヤ人として。どこへ行っても招かれざる客で、絶対に歓迎されることはないんだ」と。

こうしたことを念頭に置いてこの部分を聴いてみると、「わたしは故郷を求めてさまよう」という一句などマーラーにとって、まさに血を吐く思いであったろうと想像されるのである。

また、この後の、マーラー自身が歌詞を書いたといわれている、「愛する大地に春がめぐりくれば、至るところ、花は咲き、樹々は緑に覆われるだろう。いたるところ、永遠に遠いはてまで青く輝くだろう。永遠に、永遠に」という最後の部分も、大変素晴らしい。ハープとチェレスタとマンドリンの天国的な響きに乗って、「永遠に、永遠に」と何回も繰り返しながら曲を結ぶ。まさに、マーラーの白鳥の歌を聴く思いすらしてくる、感動的な終わり方である。

マーラーは、この《大地の歌》を完成してから2年半後の初めに、ニューヨークで高熱を発して倒れ、療養のためヨーロッパに戻ったが、その年の5月18日の深夜、ウィーンで息を引き取った。まだ50歳であった。この曲の初演は、それから半年後の11月20日、愛弟子の大指揮者ワルターの手によって行なわれた。


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