シューベルト歌曲集《冬の旅》
1. 57年の生涯を通して、運命と激しく闘い抜いた音楽の英雄ベートーヴェンが、その最期にふさわしい劇的な死で昇天したのは、1827年3月26日のことである。
ベートーヴェンの葬儀は、3日後の3月29日(木曜日)の午後3時から、ウィーン市内のプァール教会で行なわれた。ベートーヴェンの家からこの教会までは、ほんの千歩ぐらいの近い距離だったが、彼の枢のあとには、百台もの馬車が続き、教会へ着くまでに、なんと1時間もかかったという。

この超人の枢のまわりには、ウィーンに在住する著名な音楽家や文人たちが深く頭を垂れ、枢からひかれたベルトを手に持って黙々と歩いていた。フンメル、シンドラー、ウムラウフ、ザイフリート、ヒュッテンブレンナー兄弟、ミュラー、グリルパルッァ、そしてその中には、ベートーヴェンよりももっと背の低い、鉄縁眼鏡をかけた貧弱なシューベルトの姿も見かけられた。沿道には2万人もの市民が並び、超人との最後の別れを惜しんでいた。

葬儀が終わってから、シューベルトは、友人のラハナーとラントハルティンガーの三人で、ノイエルマルクトの「アウフ・デル・メールグルーベ」という酒場に立ち寄り、ワインを飲んだ。
シューベルトは、グラスにワインを注ぐと、そのグラスを高々とあげてこう言った。
「今、僕たちが葬ってきた偉大なる人のために!」
一同は深刻な顔をして乾杯した。グラスに再びワインが満たされた。彼はもう一度そのグラスをあげ、
「今度は、この次に逝く人のために!」
そう言ってグラスを干した。友人たちは、不吉なものを予感して眉をひそめた。

シューベルトが死んだのは、その翌年の11月である。正確に数えれば、それからわずか1年と8ヵ月後であった。「この次に逝く人のために!」というその時の乾杯は、皮肉にも、彼自身のための乾杯になってしまったのだった。

人は、シューベルトのことを、ドイツ歌曲の王と呼ぶ。それはしかし、ただ単に彼がその31歳という短い生涯の間に、603曲もの歌曲(リート)を作曲したという理由だけによるものではない。それまでは、民謡のましなもの程度にしか考えられていなかったドイツ歌曲が、シューベルトの手によって、芸術的な価値のあるものへと高められたからなのである。

実にシューベルトこそは、不毛だったドイツ歌曲の世界に花を咲かせた大恩人であった。
シューベルトは、14歳の時、《ハガールの嘆き》という歌を作曲した。これが彼の処女作である。実際はもっと以前に書いたものもあったようだが、それらは全部破棄され、残されていない。そして、これからあと死の年の1828年までの、わずか18年間に603曲もの歌か曲を書きまくったのだった。その間、旋律の泉は瞬時も涸れることがなかったのだから、まったく驚くべき天才といってよい。

シューベルトの書いた歌曲の中には、《魔王》や《野ばら》などのように単独につくられたもののほかに、《美しい水車屋の娘》や《冬の旅》のように、最初からまとまった歌曲集として書かれたものがある。この二作と歌曲集《白鳥の歌》とを一緒にして、シューベルトの三大歌曲集と呼んでいる。シューベルトの歌曲作曲家としての偉大さは、この三大歌曲集にことごとく集約されている、といっても過言ではない。

よく、《未完成交響曲》と《アヴェ・マリア》と《野ばら》を聞いたくらいで、シューベルトのすべてを知ってしまったかのような顔をする人がいるが、それは、とんでもない心得違いというものである。シューベルトの本当の姿は、彼の歌曲をいろいろと聴いてみないことにはわからない。

一般の愛好者に、彼の全歌曲を聴きなさいなどとは言わないが、せめて、三大歌曲集のレコードだけでも座右に備えておき、折にふれて聴いてみることをすすめたい。そのようにして何度か聴いているうちに、あなたの心の琴線にふれる何かを見出すに違いないし、また、さまざまな慰めや、希望や、勇気や、励ましを与えられるに違いない。

勇気づけてくれた音楽の中の一つが、シューベルトのこの歌曲集《冬の旅》の中の〈霜置く髪〉だったのである。
シューベルトは、モーツァルトが貧窮のうちに世を去ってから6年後の1797年に、ウィーンの片隅で呱々の声をあげた。その一生は、貧困との闘いであったといってよい。

少年時代、家が貧しかったので、金のかからないコンヴィクトという国立の学校に入れられ、給費生になった。このコンヴィクトというのは、宮廷少年合唱団(現在のウィーン少年合唱団の前身)のメンバーを養成する学校である。やがて変声期がきて、ここにもいられなくなった彼は、一時、父が校長をしていたウィーンの場末の小学校で代用教員を務めていたが、そこもまもなく辞め、あとは好きな作曲を細々と続けながら、友人のところを転々とするボヘミアンの生活を送った。

現在のように、作曲家という職業と地位が確立していれば、彼ほどの才能があったら、かなり恵まれた生活が送れたであろう。しかし、彼の作曲したものは、二、三の例外を除いては、ほとんど金にはならなかった。

また、ごく稀に金が入ってきても、彼は、ただちに友人たちにおうばん振る舞いしてしまうので、事情は同じであった。要するに、「宵越しの銭は持たぬ」といわれたわが江戸っ子たちと同様に財布の中はいつもカラで、年中ピーピーしていたのである。

だが、こういうボヘミアンの生活が、体によいわけはない。シューベルトの体は、1823年(26歳)頃から次第に悪くなっていく。彼は、前年に《交響曲第八番》(未完成)を書き、この年には、劇付随音楽《ロザムンデ》と歌曲集《美しい水車屋の娘》を書いた。作品の数はハイティーン時代よりはぐっと少なくなったが、一作ごとに円熟の度を増していった。

「他人の本当の苦痛を察することはだれにもできない。わたしの苦しみによって書かれた作品は、人々を最も喜ばすかのように思われる」
彼が日記にそう書き記したのは、この頃のことである。1826年(29歳)には、自分の死のそう遠くないことを予感したのか、《弦楽四重奏曲二短調》(死と乙女)がつくられ、続いて歌曲集《冬の旅》が書かれるのである。

2. では、歌曲集《冬の旅》とは、どんな作品なのであろうか。
シューベルトは、4年前に、彼と同時代の詩人、ヴィルヘルム・ミュラーの詩をふとした折に知り、その最初の詩集から二十編の詩を選んで、歌曲集《美しい水車屋の娘》を作曲した。

この《冬の旅》も、同じくミュラーの詩によるもので、全24曲を続けて聴くと、一種の物語になるように構成されている。ただし、厳密な意味では前作《美しい水車屋の娘》のような連編歌曲集ではない。

大体の内容を説明すると、恋に破れた青年が、生きる望みを失い、あてもない冬の旅に出る。そして、その間に体験するさまざまなことをうたいあげたもので、どの曲にも、失恋の苦しみというものが切なく悲痛に盛られている。全曲は次の24四曲からなっている。

1おやすみ、2風見の旗、3凍れる涙、4かじかみ、5ぼだい樹、6溢れる涙、7川の上で、8かえりみて、9鬼火、10憩、11春の夢、12孤独、13郵便馬車、14霜置く髪、15からす、16最後の希望、17村で、18嵐の朝、19まぼろし、20道しるべ、21宿屋、22勇気、23まぼろしの太陽、24迂音楽師。

この中には、〈おやすみ〉や〈ぼだい樹〉、〈春の夢〉、〈郵便馬車〉、〈辻音楽師〉などのように、単独でもよく取り上げられる歌もあるが、ぜひ一度は通して聴いてほしい。

ところで、一度でもこの歌曲集を通して耳にした方は、この作品があまりにも暗い灰色の調子に包まれていることに、驚かれるに違いない。事実、シューベルトがこの歌曲集を半分まで書きあげた時、友人たちを自宅に招き、できあがったばかりのこの作品を聴かせたところ、いつもはシューベルトの新作に喜んで耳を傾けた友人たちが、この時ばかりは、内容があまりにも暗すぎるといって難色を示したという。

しかし、シュパウンの伝えるところによると、シューベルトは、「いや、いまに君たちにもきっとこの歌のよさがわかるようになるさ」と言い、その出来ばえには相当な自信を持っていたということである。

シューベルトが、なぜ、このような暗い内容の歌曲集を作曲する気になったのか、その辺の事情はつまびらかではない。しかし、晩年のシューベルトが、病気がちで貧しく恵まれない孤独な生活を送っていたことを思い合わせると、失恋した若者の絶望的な暗い心情をうたったミュラーの詩に深く共感し、それを音の世界で再現しようとした気持ちが、よくわかるような気がする。

この歌曲集《冬の旅》を聴き込めば聴き込むほど、シューベルト自身、その答えをこの曲集の中に書いているような気がしてならないのである。
その答えは、曲集のそこかしこに隠されており、あなたみずから探し出してほしい。

ここでは一つだけ指摘しておこう。それは、この歌曲集の最後におかれている〈辻音楽師〉についてである。この歌は、寒空の下、村はずれの路上に立って、こごえた手でライヤー(手まわしオルガン)を奏で、道行く人の情けを乞うている老辻音楽師の姿をうたったもので、この老人に限りない同情と親しみを感じた青年が、老人に向かって、「わたしと一緒に行かないか、わたしの歌に合わせて、あなたの楽器のハンドルを回してくれないか」そう呼びかけるところで終わる。
ありあまる才能を抱きながら、恵まれない生涯を送らなければならなかったシューベルト。

この歌には、そうしたシューベルト自身の姿が、あたかも二重写しのように焼きつけられているように思われてならないのである。
シューベルトの万解の思いがこめられたこの《冬の旅》は、彼の死後になってやっと出版された。彼が死の床にあって、熱に浮かされながらたずさわっていたのは、この歌曲集の校正だったという。



盲点としてのシューベルト
「人はパンのみに生きるにあらず」というが、人間とは本来、善悪や社会的観念に突き動かされて人生の選択をする、抽象的な存在である。
そんな抽象を抱え込む内なる無意識の層を、モーツァルトは《不協和音》という音楽言語で表現した。

そして彼の病没から5年後、ウィーン郊外リヒテンタールに一人の作曲家が生まれた。フランツ・ペーター・シューベルトである。彼は、気負うことなく、自らの深層を等身大の音楽にすることができた。

この早世の天才は、31歳の若さで亡くなるまでに600余りの歌曲を作ったといわれる。歌曲作曲家として彼を超える者は見当たらない。特に、18歳の時にゲーテの同名の詩に触発されて作曲した歌曲《魔王》は名高い。シューベルトの名を抜きに、18世紀後半から19世紀末にかけて隆盛を極めたドイツ歌曲について語ることは不可能である。そんなシューベルトも、モーツァルトの音楽に心酔した。

ドイツ歌曲であるシューベルトの作品にも、無理に背伸びをすることのない、人間の生身の温かさが感じられる。それはたとえばバッハのような、神に通じるような宇宙的な荘厳さのある曲とは違う。

シューベルトの《冬の旅》という曲には失恋した青年が描かれている。世界全体から見たら、青年の失恋など取るに足らない話で、大した問題ではない。では《冬の旅》は取るに足らない作品なのかというと、それは違うだろう。どれだけ時が経ち、技術が進歩し、世界が変化しても、ずっと変わることのない人間の原点ともいうべきものがある。

シューベルトの時代と比べれば、現代の世界はなんと異なる様相を見せていることだろう。だが、人の心は同じだ。家族や友人を大切にしたいと思うこと、自分の家に帰った時の安心感、日々生きていく中での嬉しさ、悲しさ、喜び、切なさ。そうした気持ちは、いつどこにあっても失われないし、人間という存在において共通している。

しかし、めまぐるしく動き続ける世界にあって、そうした当たり前のことは、つい忘れがちになり、盲点となる。この忘れられてしまった大切なものこそが、シューベルトの音楽が奏でているものなのだ。


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