放送禁止歌は143項目の放送基準から決められていた

1.放送禁止歌の法的根拠
放送禁止歌、すなわち″要注意歌謡曲指定制度″の理論的根拠は、民放連が策定した143項目から成る「放送基準」に依拠している。

人権侵害、暴力、セックス、頑廃、下品などの要素をあげ、公序良俗に反し青少年に悪影響を及ぼすと思われる歌謡曲に対しての処置が記述されている。

ちなみにNHKの場合は、「国内番組基準」なる内規があるが、表現上の配慮についてのディテールは、ほぼ同質と考えてよいと思う。

「放送基準」は強制力のない内規である。しかしこの背景にあるのは、免許事業である放送事業を律する電波法と放送法という2つの法律だ。

明治憲法下で言論統制の根拠となった新聞紙法や出版法は、戦後は現行憲法の理念に沿わないとして廃止された。ところがラジオを前提として戦前に定められた電波法は、なぜかそのまま現行の電波法と放送法とに引き継がれ、戦後生まれのテレビを律している。

事あるごとにテレビ関係者が目にする「不偏不党」や「政治的中立」というスローガンは、この放送法一条二項「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」という文言に依拠している。

言うまでもなく表現の自由は、憲法二一条で保障された重要な権利だ。しかし放送事業の場合、憲法と放送法の二つによって、いわば二重に自由を保障されながら、「不偏不党」という条件をつけられている。

つまり放送法一条二項は、憲法に抵触するという見方もできる。テレビメディアにとっては、自らのアイデンティティを規定する非常に重要な法規なのだが、これについての議論はほとんどないし、そんな危ういバランスの上に成り立っているという自覚も稀薄だ(安易な断定はすべきでないと思うが、少なくともテレビの世界に10年以上棲息している僕は、この事実をつい最近まで知らなかった。知らずに番組を作ってきた)。

こうして日本におけるテレビは、表層的には「表現の自由」を高らかに保障されながらも、独自のオピニオンや見解を呈示することを無自覚に回避し、常に横並びの論調に陥ってしまうという傾向を強く持つようになった。もちろんテレビメディアのこの現状の由来は、法律や文言だけがその理由ではない。他にも雑多な要素はあると思う。ただ、テレビ業界人にとっては、「このほうが楽だった」ことは、間違いないだろう。

テレビが自由な言論機関として機能できない理由のひとつに、放送事業が免許制であることを指摘する声はよく聞く。しかしアメリカなども、放送事業はFCC(連邦通信委員会)という独立した行政組織が管轄する免許制だ。

そこでひとつの疑問が生じる。そもそも欧米のメディアに放送禁止歌は存在しているのだろうか?

ラジオの深夜放送に夢中になっていた1970年代、アメリカでクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルという名のグループが、『雨を見たかい?』という曲を発表して日本でも大ヒットとなった(つい最近も、自動車メーカーのコマーシャルソングとして頻繁にオンエアされていた)。

奇妙な歌だな、と感じたことを覚えている。高校生にもヒアリングできる簡単な英語の構文だった。「晴れた日に降る雨を見たことがあるかい?」と何度も繰り返す歌詞だった。→歌詞が持つ意味と音楽の融合で共感を得れればヒットする

その「雨」が実はナパーム弾のメタファーで、ベトナム戦争への抗議の歌であり、アメリカでは放送禁止歌らしいという噂をつい最近聞いた。

ニール・ヤングの『オハイオ』も、学生運動への権力側の弾圧と殺数を歌った曲であり、歌詞に当時のニクソン大統領も実名で登場するため放送禁上になったと聞いたことがある。またフォークランド紛争や湾岸戦争当時、(そして最近では9・11以降)ジョン・レノンの『イマジン』が放送禁止歌に指定されたという話も至るところで聞いた。もちろんいずれも日本で聞いた噂話だ。真偽のほどはわからない。



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