1.カラオケと宗教には深い関係があった
2004年、カンボジア政府はカンボジアで最も有名な歌手の一人の作詞した人気ラヴソングを、国営ラジオおよびTV局で放送することを禁じた。

これは女に恋して僧服を脱ぐ決意をした仏僧の歌である。この曲「恋して還俗」は発売1力月で大ヒットを飛ばしたが、仏教を蔑ろにするという非難も浴びた。

力ンボジア情報相キュ—・カナリットの談話によれば、「この歌の歌詞は、仏道に身を捧げている仏僧の名誉を冒涜するものである……我が国の国教であり、全国の仏教徒が信仰する仏教の奨励のために、情報省としては直ちにこの曲を歌うことを中止されたい」。→歌詞が持つ意味と音楽の融合で共感を得れればヒットする

1970年代初頭の内戦勃発以前、カンボジアには活発な仏教文化があった。この文化は苛烈を極めた弾圧をも生き延び、ポルポトとタメールルージュ政権の崩壊以後、再び大いに力を持つようになった。

仏教の諸宗派や協会は今や、カンボジア社会の政治的.経済的再建に重要な役割を果たしている。そんなわけで、問題のカラオケDVDは一方では多くの人を喜ばせながら、他方では多くの人を憤慨させ、反対運動を惹き起こしてきたというのもある意味では当然なのである。

「恋して還俗」するという行為は間違いなく肉体関係を意味しており、カンボジアの基準で言えば、これ以上もなくあからさまなものである。添えられた写真では胸をはだけた丸坊主の主人公が、蓮の池の上で恋人と戯れている。

結局、最後にはこの女は別の男を選び、主人公の生臭坊主はやるせなく歌う、「この立派な黄色の僧衣を捨てたのに。何故あなたは私を哀れんではくれないのか?

……彼女が気持ちを変えるとは思えない。また出家するしかない」。この曖昧な結末もまた議論を呼んだ。この生臭坊主は沙門としての基本的な淀を破ったのみならず、恋に破れた途端、またしても寺に頼ろうろうなどと不埒なことを考えているのである!

カラオケと仏僧の生臭い繋がりは、たった一人の歌手の大胆な想像力の産物だけに留まるものではない。『カンボジア・ディリー』紙の最近の記事によれば、カンボジア南東にあるチュティカーラム寺院の若い住職は平服を着てカラオケ施設で歌ったことを咎められ、自主的に還俗した。同じような話は最近では東南アジアの至る所に見られる。

2.キリスト教とカラオケ
カラオケが仏教国において良くも悪くも繁栄しているなら、その人気は他の宗教コミュニティにも及んでいる。1985年、『タイム』誌は合衆国におけるカラオケ現象を初めて取り上げた。

その記事によれば、「日本からもたらされた『カラオケ』と呼ばれる小粋な電子機器」が、小さな教会、ネブラス力大学精神医学研究所、さらにはメンフィスのエルヴイス.プレスリ—の家のすぐ近くにあるソングマスターズ,グレイスランド、レコーディング.スタジオ&シングァロング,ショップなどに置かれているという。

より最近も、アメリカの雑誌には「ニッチを得たキリスト教カラオケ音楽」「キリスト教カラオケの売り上げ、跳ね上がる」などの記事が掲載されている。確かにニッチな市場かもしれないが、販売されているキリスト教カラオケ,レコードの膨大な量を見る限りクリスチャンカラオケと引用符付きでグーグル検索すると、2006年6月の時点で800万のヒットがあった。このような製品には膨大な需要があるらしい。

「歌の好きなキリスト教徒」を対象とする六種頃のカラオケCDをリリースし、その後の数年間にさらに数十枚のCDがリリースされた。

この音楽は「ブームボックス,カラオケ」用で、これは歌詞の表示されるボータブルな音楽プレーヤーである。キリスト教の賛美歌に伴奏を付けるというアイデアは聖公会の信徒にとって極めて魅力的であり、しかもそれは教区教会のみに留まらない。

キリスト教の勤行とカラオケ機器の結びつきは一見突飛ではあるが、その中心にあるのは賛美歌の伝統に対する英国聖公会の誇り、そしてこのテクノロジ—の力や使い勝手である。

この現象のスケールのほどは、BBCが日曜日に放送している賛美歌番組「主を讚える歌」のウェブサイトを見れば明らかである。もう40年も続いているこの番組は、既に世界の五大陸を訪れており、まさしく世界最大のカラオケと言うべきものである。

「主を讚える歌」プロジェクトの監督は、カラオケという概念に固有のものである、音楽素材を意のままに操る解釈者の感覚を次のように語っている今日では、「主を讃える歌」は、大聖堂や教会のみならず、ホールやフットボール場で収録するようになった。

だが場所は変っても、常に変らないのは霊感をもたらす音楽の豊かさだ。それは心と魂の両方に触れる音楽だ。だが一番大切なのは、あなた自身がそれを我がものとし、それに合わせて歌うことの出来る音楽だということだ。

一方ではカラオケを罰し、違反者を追放する。もう一方では布教の手段として歓迎する。この極端の間の緊張は、他の多くの文脈や場所においても見られる。社会一般においてカラオケがどのように行なわれているかは、カラオケに対する宗教団体の態度を決める決定的要因とは言わぬまでも、極めて重要なのは間違いない。



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