シューベルト交響曲第八番ロ短調(未完成)
シューベルトの人生を知れば未完成の意味がとても深かった
1. この記念碑というのは、シューベルトが死んだ翌年に建てられたもので、詩人グリルパルッァーによって書かれた次のような碑銘が彫りつけられている。

音楽は豊かなる宝を、されど
さらに頼もしき希望を埋めぬ
フランッ・シューベルトはここに眠る
1797年1月31日生
1828年11月19日没
享年31歳


この記念碑のことばは、熱烈なシューベルトの愛好家たちから激しい非難を浴びた。この中の「さらに頼もしき希望を埋めぬ」という一行にクレームがついたのである。音楽史上、稀にみる大天才であったシューベルトが、これではいかにも未熟であったかのようにとられるからけしからん、というわけである。

しかし、客観的にみると、この碑銘は決して間違ったことを述べているわけではない。シューベルトが生きていた年月というのは、通常の人生の半分にもみたない、31年という短いものであった。いかなる大天才であっても、これではあまりにも短すぎたといえるだろう。

事実、彼が人間的にも、また作品のうえでも真に熟してきたのは、死ぬ2、3年前からであった。いよいよ、これから、という矢先にぽっくりと死んだのである。彼があと20年、いや10年でも生きていて、作品を生み続けていたとしたら、グリルパルッァーも、「さらに頼もしき」ということばは使わなくてもすんだであろう。

シューベルトの作品の中で、最も一般に愛され、親しまれているこの《交響曲第八番ロ短調》が、通常の交響曲の四楽章にくらべて、二楽章しかないため、「未完成」と呼ばれているのは、彼自身の未完の人生に一脈通じるところがあるように思われてならない。

シューベルトは、全部で9つの交響曲(そのうちの一曲は消失している)を作曲しているが、彼が生きている間に、公開の演奏会で演奏されたことは一度もなかった。またドイツ歌曲の王と呼ばれるほど、人々から愛され親しまれている珠玉のような美しい歌曲を603曲もつくったシューベルトではあるが、元来駆け引きということのできない性質だったので、自分の作品を出版する際には、いつも出版社の言いなりになっていた。だから、いつまでたっても、経済状態は一向に良くならなかった。

シューベルトの作品が、尊敬するベートーヴェンに初めて認められたのも、この楽聖がすでに死の床にあった時である。ベートーヴェンは、シューベルトの作品を手にして、「この青年のうちには、聖なる火花がある」と称讃したという。

しかし、その「聖なる火花」も、ベートーヴェンが世を去ってから、わずかに1年と8ヵ月しか燃え続けていなかったのである。シューベルトは、モーツァルトとともに、たしかに音楽史上の二つの輝かしい大天才には違いないが、そのすぐれた才能を完全に開花することなく死んだ、悲劇の大天才だったわけである。

シューベルトの《交響曲第九番》の遺稿がシューマンによって発見されたのは、シューベルトが死んでから10年たった1838年のことだが、それから27年後の1865年の春、ウィーン楽友協会の指揮者ヨハン・ヘルベックは、シューベルトの親友の一人だったヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの口から耳よりな情報を手に入れた。

彼の兄アンゼルム・ヒュッテンブレンナーの手もとに、これまで知られていないシューベルトの交響曲の草稿があるはずだ、というものである。それを聞いたヘルベックは、早速グラーツのアンゼルム・ヒュッテンブレンナーの家に駆けつけ、机の引き出しの奥深くにしまい込まれていた、シューベルトの新しい交響曲の草稿を発見したのだった。

2. こうして世に出ることになったのが、この《交響曲第八番ロ短調》で、この曲は、その年の12月17日に、ウィーン楽友協会の演奏会で初演された。この曲が書かれたのは、シューベルトが25歳の1813年の10月であるから、それから実に43年もあと、シューベルトが世を去ってからでも37年後に、やっと陽の目をみることができたのだった。なぜ、この名曲がそれほど長い間アンゼルムの手もとで眠っていたのか、という理由はつまびらかではない。

1823年の4月に、シューベルトは、オーストリアのシュタイアーマーク音楽協会の名誉会員に推薦された。そのことを大変光栄に思ったシューベルトは、この曲をシュタィァーマーク音楽協会にお礼として贈ることにし、楽譜をグラーツのアンゼルム・ヒュッテンブレンナーのもとに送った。

ところがどうしたわけか、アンゼルムは、この作品を自分の手もとに置いたまま、ついにシュタイアーマーク音楽協会には渡さなかった。彼がそういう行動をとったのは、善意に解釈すれば、手もとに届いた作品が、交響曲でありながらわずか二楽章しかない中途半端な作品なので、残りの二つの楽章が送られてくるのを待っているうちに、忘れてしまったのかもしれない。

とにかく、それから5年後、シューベルトがグラーツを訪れた時にも、二人の間で、この作品が何ら話題にならなかったというのであるから、お互いにのんびりとした話である。そしてその翌年、シューベルトは、31歳という若さでこの世を去ってしまうのである。この曲が未完成に終わっているところから、ロマンティックな理由もいくつか考えられた。

戦前に作られたシューベルトの伝記映画『未完成交響楽』もその一つで、この映画では、シューベルトとハンガリーの貴族エスターハージ伯爵の令嬢カロリーネとの間に美しくも悲しい恋物語があり、そのためにこの曲が未完成に終わったとしている。話としてはおもしろいのだが、事実とは食い違っている部分も多く、この物語をまともに信じることはできない。

シューベルトがツェレスにあるエスターハージ伯爵家へ音楽の家庭教師として雇われたのは、1818年(21歳)の夏のことであった。その時シューベルトは、1回2グルデンという安い謝礼で伯爵家の令嬢たちにピアノを教えたのであるが、二人の間には何もなかったに違いない。その時カロリーネはまだ11歳で、いかにおませな女の子でも、11歳で21歳の男性に恋をするとは思えないからである。

それから6年後の1824年に、シューベルトはもう一度、ツェレスに招かれている。今度はカロリーネも17歳、美しい魅惑的な乙女に成長していたから、二人の間に恋愛感情のようなものが生まれたとしても、なんら不思議ではないが、この時には、この交響曲はすでに書かれてしまったあとであった。だから、シューベルトがカロリーネに愛情を捧げたことがもしあったとしても、この曲が未完成に終わったこととは、何ら関係がないのである。

ただ、二人の間がどの程度のものだったかを推測させる材料として、二人の間に次のような会話が交わされたことが伝えられている。ある日、カロリーネは不服そうな顔をして言った。
「あなたは、いろいろなお方に音楽を捧げていらっしゃるのに、なぜこのわたしには一曲もくださらないの。」

するとシューベルトは、
「ぼくは、今まであなたに、何もかも捧げてきているのに、このうえ何を捧げる必要がありましょう」
と答えたというのである。
思わせぶりな会話だが、これだけの材料から、二人の間にロマンスがあったと断定するわけにはいかないであろうし、仮に二人の間に、もしロマンスがあったとしても、身分の相違や経済的な問題から、どのみちシューベルトの方から諦めざるを得なかったに違いない。

そういうわけで、この曲が未完成に終わった原因を、シューベルトのロマンスに結びつけられる可能性は、今のところはない。そこで、もっと別の面から探ってみよう。
この交響曲は、第三楽章スケルツォの9小節までオーケストレーションされ、あとは129小節のトリオの前半までがピアノでスケッチされている。こうしてみると、彼がこの曲を四楽章構成の普通の交響曲に仕立てようとしていたことは確実である。ところが、それが第三楽章の途中でプッンと切れている。そこに謎がある。

シューベルトは無類の健忘症だったから、途中まで書いて忘れてしまったのだろうという説。また、ハイドン以来の交響曲は、たいていの場合、偶数拍子と奇数拍子の楽章が二つずつでできているのに、この曲は四分の三、八分の三、四分の三拍子と、全部が奇数拍子で書かれている。

そこで彼は、行き詰まりを感じてペンを捨てたのであろうとする説。もう一つは、様式的には確かに未完成だが、内容的には立派に完成された作品なので、シューベルトは天才の直観として、意識的にペンを置いたのであろうとする説。それこそ諸説フンプンで、決め手となるべき説はまだ現われていない。なぜ、シューベルトが途中で作曲するのをやめてしまったのかについて納得のいく理由が見つからない以上、最後にあげたような説に従っておくのが無難であろう。

ブラームスは、かつて次のように述べたことがある。
「この曲は、様式的には確かに未完成だが、決して未完成ではない。この二つの楽章を聴くと、いずれも内容は充実しているし、その美しい旋律は、すべての人々の魂を限りない愛をもってとらえ、誰でも感動せずにはいられないほどの、温和な、そして親しみのこもった愛の言葉をもって、わたしたちに語りかけてくる。これほど大衆的な魅力を持った交響曲を、わたしはまだ一度も聴いたことがない」
さすがに、慧眼なブラームスだけあって、彼はこの交響曲の持ち味というものをずばりと言い当てていると思う。

この曲の魅力について、これ以上述べる必要はないであろう。名指揮者ワインガルトナーが、「あたかも、地下の世界から湧きあがるように」と形容した、チェロとコントラバスによる深沈とした導入部から始まる第1楽章もさることながら、ロマンティックな詩情がこぼれんばかりの第1楽章は絶品で、ことに豊かなハーモニーと転調のおもしろさは格別である。

ワインガルトナーはまたこの曲について、「シューベルトは、この曲によって、すでに永遠の安息への旅の準備をしていたのではなかろうか」と述べているが、この第二楽章など、たしかに天使の遊ぶ花園を思わせるような素晴らしい情緒である。様式的には未完成であっても、内容的には完成された交響曲、そこに、この曲の不滅の生命があるのである。


3.遺された「未完成」
この交響曲が「未完」であることについて、世界中で諸説が唱えられている。書きかけで残存している第三楽章で行きづまったとか、全く逆に、全二楽章で書き尽くしたからだとか、とりあえず書いたところまでをグラーツのヒュッテンブレンナー氏に送りそのまま忘れてしまったとか。

そもそもなぜ「未完成」と呼ばれるのかというと、交響曲は、通常4つの楽章から成り立つ様式を持っているからだ。
ただ、今日まで残っているエピソードから察するに、シューベルトは決して様式を重んじる人物ではなかったようだ。19歳のシューベルトは、シュパウンという友人を介し、《魔王》を含めた7曲余りの自信作を、ゲーテに送った。しかしゲーテからはなんの返事もなく、当人が見たかさえあやしいとされている。

その理由としては、シューベルトの作曲が「詩の軽視」と受け取られた説が有力である。詩形に則った旋律の繰り返しが当時のドイツ歌曲の原則であったのに対し、シューベルトは反復を避け、歌詞に次々と新しい旋律をつけて歌曲全体を構成したのである。

要するに、スタイルの革新をしたわけだ。このエピソードからも、既存の形式に囚われることから逃れようとするシューベルトの個性を垣間見る思いがする。とにかく、シューベルトの交響曲第八番には、第三楽章と第四楽章がない。確たる証拠が示せる問題ではないので、その答えは不明である。だが、未完であってもなくても、この曲の奥深くにひそむ含意は、増しこそすれ損なわれることはない。人々は、「欠損部分」に思いを馳せる。「未完成」である理由を知るために、生涯をかけてその欠如に耳をすます人もいるだろう。

意識してかせずかはわからないが、作曲家は、音のない部分を遣した。そのおかげで、180年後の今、私たちは、目に見えないどころか耳にさえ聞こえないものを「聴く」ことの快感を知り得たのだ。


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