ヴィヴァルディ協奏曲集《四季》
1. アントニオ・ヴィヴァルディは、そのヴェネッィアの生んだ最大の作曲家である。ほかに同時代の作曲家に、トマソ・アルビノーニがいるが、作品の数からいっても、ヴィヴァルディの方が上である。

ヴィヴァルディが、生涯に作曲した作品の総数は、たいそう多い。現在までに、約650曲が発見されているが、このうち554曲が器楽曲、40曲以上がオペラ、50曲以上が宗教的作品となっている。ただしこれは、あくまでも発見、確認された曲数で、このほかにも未発見の曲が考えられるというから、相当な多作家である。

さらに、この554曲の器楽曲を分類すると、そのうち、実に454曲が各種の独奏楽器による協奏曲だというのだから、驚く。まさに協奏曲の王と呼ばれるのにふさわしい数量である。そして、このうち、弦楽器のために書かれたものが330曲もあって、約73パーセントを占めているというのも、ヴァイオリンの名手だったヴィヴァルディらしい。

髪の毛が赤かったところから赤毛の坊さんとあだ名されていたヴィヴァルディの生涯に関しては、不明の部分が多い。第一、生まれた年にしても諸説があってはっきりとしなかったが、これは、最近、彼の洗礼記録が発見されたことから、1678年の3月4日に生まれたことが確認されている。

ヴィヴァルディの残した最も大きな業績は、トレルリやコレルリのあとを継いで、古典的協奏曲の様式を確立したことで、バッハやヘンデルは、彼の影響を大変強く受けている。特にバッハは、若い頃から盛んにヴィヴァルディの作品を研究し、彼の作品を数多くチェンバロ独奏曲や、チェンバロ協奏曲に編曲したことは、有名である。

2. ところで、ヴィヴァルディといえば、すぐに口をついて出るこの四季は、1720年頃に作曲され、その5年後にアムステルダムで出版された、全12曲からなる《協奏曲集作品》(和声と創意への試み)の第1曲から第4曲までをひとまとめにしたもので、4曲とも独奏ヴァイオリンと弦楽オーケストラのために書かれている。昔は、「合奏協奏曲」と題されていたこともあったが、そうではなく、三楽章からなる近代の独奏協奏曲に近いスタイルで言かれた、4つの独立した曲を集めたのが、この《四季》という作品なのである。

なぜ、この曲集が《四季》と名づけられているかというと、4つの協奏曲には、それぞれ春、夏秋、冬の情景をうたったソネット(短詩)が書かれており、その詩の内容が、音楽で描写されているからである。


ヴィヴァルディはベートーヴェンとは違って、たいそう筆の速い作曲家であった。彼はある時、「私は、写譜屋が清書するよりも、もっと早く作曲することができる」と言ったことがあるが、実際、彼の作曲のスピードは、驚くほど速かったらしい。現に、彼が、ある人の依頼を受けて、10曲の協奏曲をなんと3日で書きあげたという記録も残されている。

いくらヴィヴァルディの頃の協奏曲が、のちの古典派やロマン派の時代の協奏曲よりも、構造が簡単にできているとはいっても、これは大変なスピードだ。おそらく、手紙でも書くかのようにして、五線紙を埋めていったのであろう。そのようにして、あれだけの量の作品を書いているのであるから、なかには似た感じの曲が出てくるのもいたしかたなかろう。

だから、1975年に世を去った現代イタリアの作曲家ダラピッコラのように、「ヴィヴァルディは600の協奏曲を書いたのではなく、ひとつの協奏曲を600回書きかえたのだ」と皮肉りたくもなるが、そうした見方が当を得ていないことは、この《四季》を含む「作品八」や、《調和の霊感》と題された「作品三」などの彼の代表的な協奏曲集を、じっくりと聴いてみればわかることだ。同じように見えても、ヴィヴァルディは、一曲ごとに全部趣向を変え、オーケストラ伴奏の部分の書き方を変えており、一曲として同じ書き方をしたものはない。仕事が速いからといって、決して手を抜いていたわけではなかったのである。

ヴィヴァルディの晩年についても謎の部分が多い。彼がなぜ、またどのようにしてウィーンに出て来たのか、つまびらかではないが、1741年の夏彼はウィーンにいた。そして、ウィーンのある革細工師の家で息を引き取り、その遺体が、7月28日にウィーンの共同墓地に葬られたことがわかっている。このイタリア・バロック音楽の天才作曲家の最期は、その残した業績にくらべて、あまりにもみじめであった。


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