ロッシーニオペラ《セビリヤの理髪師》
町を歩いていると、妙に目に留まるのが理髪店の看板である。あの赤・白・青の三色のねじりアメのような看板の形は、日本全国どこへ行っても変わらないが、この看板はいったい何を表しているのか、ご存じだろうか。

赤・白・青といえば、例のフランスの国旗を思い出す人も多かろうと思うが、この場合は、別に三色旗のような自由・平等・博愛などという理念を表すものではなく、それぞれ赤は動脈、青は静脈そして白は包帯の色を意味しているのである。万国共通のこのデザインは、フランスのメャーナキルによって1540年に考案されたものだといわれている。

それでは、なぜ理髪店の看板として、そうした動脈や静脈、包帯などのシンボルが使われているのだろうか。それは、近代医学が発達する以前は、理髪師が外科医を兼業するのが通例で、骨折や脱臼、傷の手当てなどの医療に当たっていたからである。

ロッシーニのオペラ《セビリャの理髪師》は、そうした理髪師が同時に外科医を兼ねていた時代の話なのである。現在、名曲中の名曲として親しまれている作品の中には、初演の時にひどい不評を蒙ったという例がよくあるが、この《セビリヤの理髪師》もその一つで、このオペラが初めて舞台にかけられた1816年の2月20の夜、ローマのアルジェンティナ劇場は、この劇場始まって以来の大混乱に陥ったのだった。

なにしろ、第一幕が始まると同時に、観客席から野次が飛び、劇の進行につれて、怒号と口笛と足踏みが次第に激しくなり、どうにも収拾がつかなくなってしまったのである。

当時のイタリア・オペラの聴衆は、大変行儀の悪いことで有名で、自分たちの気に入らない作品に対しては、決しておとなしく聴こうとはしなかったといわれている。しかし、この場合は、そのためばかりではなく、ロッシーニに対する反対派の悪質な上演妨害という、多分に意図的なものがあったとみられている。

そのあまりにもあくどい嫌がらせに頭にきたロッシーニが、オーケストラ席のピアノのかたわらから立ち上がると、たちまち野次り倒されたというかひどいものである。ロッシーニは、それで、ついに諦めて途中から劇場を抜け出し、ホテルにひきあげてしまったといわれている。

この夜、主役のロジーナを演じたメゾ・ソプラノのリゲッティ・ジョルジの語ったところによると、終演後、彼女がホテルに訪ねていくと、すでにロッシーニはぐっすりと眠り込んでいたという。このような騒動のあとで、枕を高くして眠れたのかどうか疑わしいとして、ロッシーニはおそらくタヌキ寝入りをしていたのだろう、という意見を述べる人もいるが、仮に、それが彼の演技だったのだとしても、そのように泰然自若としていられたとは、ロッシーニという男もなかなかの大物である。

このオペラ《セビリヤの理髪師》は、ロッシーニの17番目のオペラで、1816年1月に、わずか13日という短期間で書きあげられている。ロッシーニはその時、まだ23歳という若さでありながら、すでにオペラ作曲家としての評判は絶大で、新作を発表するたびに世間の耳目を集めていたが、この《セビリヤの理髪師》に限って、これほどのひどい上演妨害を受けたのには、実はいささかわけがあったのである。

このオペラは、1799年に67歳で波潤万丈の生涯を閉じたフランスの劇作家ボーマルシェの戯曲をもととしたもので、同じ作者の筆になる「フィガロの結婚』の前編に当たっている。モーツァルトによってオペラ《フィガロの結婚》が作曲されたのは1786年であるから、ちょっと考えると、後編の方が先にオペラ化されているようにも思われるが、本当は、その4年前の1782年にパイジエルロが、オペラ《セピリャの理髪師》を発表し、それによって名声を得ていた。

そうしたところへもってきて、ロッシーニのような若僧が、同じ題材で大先輩の名作の向こうを張ろうとしたのだから、パイジエルロの支持者たちが神経をとがらせたというのも無理からぬ話で、そもそも最初から雲行きが怪しかったのである。

抜け目のないロッシーニは、その辺のところを十分考慮し、題名を「アルマヴィーヴァ、あるいは無益な用心」として舞台にかけたものの、さっぱり効き目がなかったというわけなのである。しかし、悪名高いその嫌がらせも、初演の日だけで終わり、2日目からは、平穏に上演が行なわれたという。

このオペラのあらすじはこうである。
第一幕第一場時代は18世紀、場所はスペインのセピリヤである。有名な序曲で幕があがると、そこは夜明けのセビリヤの町角で、左手に医師バルトロの家があり、バルコニーが見そこへ、ランプを手にしたアルマヴィーヴァ伯爵が、下僕のフィオレルロや数人の楽師たちを連れて現われ、バルトロの後見するロジーナに聴かせるために、彼女の窓の下で愛のカヴァテイーナ〈空はほほえみ〉を歌う。

しかし、窓は閉ざされたままで、お目当てのロジーナは姿を現わさない。やがてそこへ、「ララララ…」と陽気な歌声が聴こえてきて、理髪師のフィガロが登場する。そして、よく知られているカヴァティーナ〈わたしは町の何でも屋〉を歌うので、伯爵は、この機智縦横のフィガロに、ロジーナとの恋の取り持ちを頼む。

ロジーナは、両親に死に別れた貴族の娘で、老医師バルトロがその後見人をしているが、バルトロは、あわよくば自分自身がロジーナと結婚し、ロジーナの財産をそっくりいただいてしまおうと考えている。だから、そのロジーナを、なんとしてでも若い男に取られたくないと、彼女の身辺に厳重な監視の目を光らせているわけなのである。

伯爵がフィガロと話をしていると、突然、バルコニーにバルトロとロジーナが出て来るので、二人は物陰に身を隠す。ロジーナは、手にした恋文を風に飛ばされたように見せかけて下に落とす。嫉妬深いバルトロがそれを探しに出かけている間に、伯爵はその手紙を拾い、ロジーナの本心を知ると、バルトロが外出したあと、「わたしの名が知りたければ」と歌い出し、「貧しい学生のリンドロです」と名乗る。

ロジーナヘの思いを募らせた伯爵は、フィガロに、「なんとかして今日中にこの家に入れないか」と持ちかけ、フィガロが、うまいことに軍隊が今日この町に来て民宿することになっているから、士官に化けて入り込めばよい、と教えるので、伯爵は喜んでしまう。

第二場バルトロの家の中の一室。ロジーナが手紙を手にしながら、もの思いにふけっている。ここでリンドロ、つまり伯爵のことを思って歌う愛の歌が、有名な〈今の歌声は〉である。歌が終わるとフィガロが登場し、すぐそのあとにバルトロが帰ってくる。そこへ音楽教師のバジリオが現われて、この町にアルマヴィーヴァ伯爵が来ているらしいから、用心するようにと告げるので、バルトロは、一刻も早くロジーナと結婚してしまうのが得策だ、と心に決める。

二人が退場したあと、フィガロは、ロジーナに、「今朝窓の下にいた男は自分のいとこで、あなたのことを愛している」と言うので、ロジーナは喜んでフィガロに手紙を渡す。そのあと、バルトロが現われ、ロジーナにくどくどと文句を言う。しばらくすると、士官に扮した伯爵が酔ったふりをしてやってきて、バルトロにからみ、隙を見てロジーナに、「わたしがリンドロです」と言うので、彼女にはこの士官の正体がわかる。

そこへ、警備隊員たちがやってきて伯爵を捕らえようとするので、伯爵は身分を隊長にだけ明かして窮地を脱する。あとに残ったバルトロや使用人たちが、キツネにつままれたような顔でキョトンとしているところで、第一幕が終わる。

第二幕第一場バルトロの居間。バルトロが不可解な気持ちでいるところへ、今度は音楽教師に変装した伯爵が入ってきて、急病のドン・バジリオの代わりに歌のレッスンに来ましたと言う。ひと目見ただけで、その教師がリンドロ(伯爵)であることを知ったロジーナは、嬉々として歌の稽古を始める。

バルトロがそうした二人の様子に落ち着かず、監視の目を注いでいると、フィガロが散髪の道具を持って登場し、バルトロの体をイスにくくりつけ、動けないようにして、髭を剃るために石鹸で顔を泡だらけにしてしまう。その間に、伯爵はロジーナと愛のことばをかわす。

ところがその時、病気で寝ているはずのバジリオがやってくるので、伯爵は金を握らせてバジリオを追い返す。そして、さらに若い二人の愛の語らいが続けられるが、ついにバルトロに感づかれ、三人はそそくさと退場する。第二場第一幕第二場と同じバルトロ家の一室。バルトロがバジリオを連れて入ってくる。

二人で相談した結果、バルトロは今夜中にロジーナと結婚することに決め、バジリオに公証人を呼びにやらせる。そしてロジーナに、彼女がリンドロに宛てて書いた手紙をつきつけて、おまえはだまされているのだと言うので、ロジーナもリンドロに裏切られたと思い、「実は、彼と今夜駆け落ちをすることになっています」と白状してしまう。それを聞いたバルトロは、今夜こそ奴らの首根っこを押さえてやろうと、巡邏兵を呼びに外へ出る。

外はすごい嵐である。その嵐が少し静かになった時、バルコニーの扉が開いて、伯爵とフィガロが忍んでくる。伯爵はこの時、初めて自分の本当の身分を明らかにするので、ロジーナは愛の喜びにふるえる。そこへ、バジリオが公証人を連れて帰ってくるので、フィガロは、公証人を言いくるめて伯爵とロジーナの結婚証書をつくり、バジリオを買収して書類にサインをさせてしまう。その直後、バルトロが巡邏兵を連れて戻ってくるが、時すでに遅く、二人は法律的に結ばれてしまっているのでどうしようもない。

がっかりして肩を落とすバルトロ、それを慰めるバジリオ。伯爵とロジーナは愛の讃歌を歌う。しかし、バルトロは、伯爵からロジーナの全財産をそっくりやるからと言われるので大喜びする。そこで一同は、〈愛はとこしえに〉を歌って、二人の結婚を祝福し、幕となる。

このオペラは、ロッシーニの名を不朽にした傑作である。この作品が当時の人たちからいかに高く評価されていたかは、彼が、初演から6年後の1822年にウィーンを訪れた際、ベートーヴェンから、「《セビリャの理髪師》のような作品をたくさん書くように」とすすめられたという話からもうかがえよう。

この年、ロッシーニは、ウィーンのケルントナートーア劇場の支配人のバルバイヤの招きでウィーン進出を果たし、彼のオペラはウィーンの人気を独占した。音楽の都ウィーンは、ロッシーニ色に塗りつぶされ、さすがのベートーヴェンも、一時は全く影が薄くなってしまったほどであった。

いったい、そうしたロッシーニの人気の秘密は何だったのだろうか。それは、ロッシーニの音楽の特色を考えてみればわかる。グラウトは、名著「オペラ史」の中で、「雄弁な、力にあふれる旋律を創案する才にかけて、今日までロッシーニに並ぶ作曲家は少ない」と述べているが、そうした彼一流の旋律の魅力が、イタリアの聴衆と同時にウィーンの人たちの心をぐっとつかんでしまったのであろう。これにくらべると、ベートーヴェンの《フィデリオ》などは、あまりにもまじめすぎて、いささか肩の凝る思いのする作品だったに違いない。

前述したように、この《セビリヤの理髪師》は、わずか13日という驚異的なスピードで書きあげられた。こうしたことは、一つの作品を長い時間をかけて磨きあげるといったタイプのベートーヴェンやブラームスには、まず考えられないことである。

この話を聞いた5歳年下のイタリアのオペラ作曲家のドニゼッティが、「ふん、ロッシーニならそれぐらいのことはやるだろうよ。彼は怠け者だから」と評したといわれているのも、その辺のことを指しているのであろう。

つまり、ロッシーニは、いわば手紙でも書くかのようにすらすらと作曲のペンを走らせていったのである。こうした作り方では、とかく拙速になりやすいが、事実、彼の40曲にものぼるオペラの中で、今でも上演されるのは、この《セビリヤの理髪師》と《ウィリアム・テル》のほか数曲ぐらいなものである。

《絹のはしご》や《タンクレディ》、《セミラーミデ》、《どろぼうかささぎ》など、どれも発表当時は大変評判になった作品だが、現在では、序曲だけが演奏会のプログラムを飾っているにすぎない。

それも、ロッシーニが台本を十分に吟味せずに、安易に書き流していた報いなのだが、この《セビリヤの理髪師》は、原作がボーマルシェの名を不朽にした傑作だけあって、台本そのものも大変すぐれている。ロッシーニ研究家のフランシス・トイが述べているように、ロッシーニが曲をつけた台本の中では、最もよくできたものであった。

そして機智縦横の理髪師が策士となって活躍するこのオペラは、頭の回転がよく、口八丁手八丁だったロッシーニに内容のうえでもぴったりであった。だからこそ、短い作曲期間にもかかわらず、このオペラは、彼の長所を残らず出し尽くした作品となり、グラウトも述べているように、まさに「イタリア・オペラ・ブッファの精神の化身」ともいうべき傑作となったのである。

しかし、残念なことに、ベートーヴェンが熱心にすすめたにもかかわらず、二人の会見後、ついに「《セビリャの理髪師》のような作品」は生み出されなかった。そして、37歳の時書きあげた《ウィリァム・テル》を最後に、ぶつつりとオペラの作曲の筆を絶ち、オペラ界から足を洗ってしまうのである。

スタンダールは、こうした彼を皮肉って、「37歳の若隠居!」と述べているが、76歳まで長生きした彼が、なぜ人生の半ばで引退してしまったのか、それはわからない。おそらく、何らかの原因で、彼の才能が枯渇したのか、過労からきた神経疾患が昂じたためか、それとも、グランド・オペラのマイアーベーアの出現で、ロッシーニのオペラの人気が落ちてしまったので、やる気を失ったためなのだろうか。

いずれにしても、彼が後半生を何不自由なく過ごし、悠々自適の生活を楽しむことができたのは、若い頃書きまくった約40曲のオペラによって財産をしこたまため込んだおかげであった。彼は、1868年の11月13日の金曜日に、パリ郊外パッシーの別荘で、愛妻オランプにみとられながら息を引き取った。まさに大往生であった。
 



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