ドヴォルザークの人生が波乱万丈
ドヴォルザーク交響曲第九番ホ短調(新世界より)
1.チェコは、昔からヨーロッパの音楽学校といわれてきたほど、その国民は、音楽的な才能に恵まれていることで知られている。そのチェコの人たちが自慢するものが三つある。一つはピルゼン・ビール、一つはスメタナ、そして最後の一つはドヴォルザークである。チェコは、東ヨーロッパの中の一小国には違いないが、音楽的にはドイツやオーストリアにつぐ大国なのである。

チェコの人たちが大変誇りにしている大作曲家アントニン・ドヴォルザークは、1841年の9月8日に、ボヘミアの片田舎ネラホゼヴェスの肉屋兼居酒屋のせがれとして生まれた。大作曲家になるような人は、両親が音楽家であるとか、小さい時から音楽的な環境に恵まれて育った、とかいうのが普通だが、ドヴォルザークの場合は、特別にそういった話はない。

父親は、かなり音楽好きだったといわれているが、これも、チェコの場合にはそう珍しいことではない。そうしたごく当たり前の家庭に育ったドヴォルザークのような人が、大作曲家として大成したというのも、チェコの音楽の底辺が、いかに厚いかということのよい証明になるといってよかろう。

ドヴオルザークは、ヨーロッパの大作曲家の中では、チャイコフスキーに次いで大西洋を渡った二番目の人である。それも、チャイコフスキーの場合は、1891年に創設されたニューヨークのカーネギー・ホールのコケラ落としに招かれ、そのついでに、ワシントンやフィラデルフィア、ボストンなどにも足をのばした、といった感じの、ごく短期間の滞在であったが、ドヴォルザークの場合は、約2年半という、比較的長期間にわたり腰を据えてアメリカに滞在している。

ニューヨークのジャネット・サーバー夫人から、彼女が1885年以来経営してきたナショナル音楽院の院長になってほしい、という鄭重な依頼状がドヴォルザークのもとに届いたのは、1891年の春のことであった。その頃までに、ドヴォルザークは、8曲の交響曲をはじめ、数多くのオーケストラ曲や室内楽曲、ピアノ曲、オペラなどを書き、その名声は海外にまで鳴り響いていたのである。

ドヴォルザークは、最初、このサーバー夫人の申し出を受けるべきかどうか、大変迷ったらしい。というのは、彼はその時、プラハ音楽院の作曲科の教授として就任したばかりだったし、熱烈な愛国者だった彼は、チェコの自然を深く愛していたので、2年間も祖国を離れて暮らすなどという気にはなれなかったからである。

しかし、再三にわたるサーバー夫人からの要請で、ドヴォルザークも、ようやく故国をしばらくの間あとにすることを決心した。1年に8ヵ月の勤務と10回の演奏会、しかも年俸1500ドル(3万グルデン)ということも魅力だったからである。

ちなみにこの頃のドヴォルザークのプラハ音楽院での給料は、年に2000グルデンであった。これを見ても、サーバー夫人の申し出がいかにケタ違いのものであったかがわかる。ドヴォルザークは、2年間の休暇をとり、1892年の9月15日、愛妻と6人の子供のうちの2人(長女のオティリエと長男のアントン。ちなみにこのオティリエは、のちにドヴォルザークの弟子のスークと結婚した人で、チェコの名ヴァイオリニストのスークは、オティリエの孫である)を連れて旅立ち、9月26日にニューヨークに着いた。

彼は、その時、300人の大合唱と88人のオーケストラによって盛大な歓迎を受けた、という話である。こうして、彼の生涯にとって忘れることのできない、2年半のアメリカでの生活が始まるのである。

ここで、当時のアメリカについて、ごく簡単にふれておくと、その当時のアメリカは、コロンブスのアメリカ大陸発見(1492年)から400年、また1783年に独立を果たしてから、わずか109年しかたっていない歴史の浅い国で、ヨーロッパの人たちからは新大陸と呼ばれていた。ちょうど資本主義の興隆期で、時の大統領は23代目のB・ハリスン、有名な大陸横断鉄道は、23年前の1869年にすでに完成していた。

ドヴォルザークは、音楽院に近い東十七番通りに落ち着き、お上りさんよろしく、活気にあふれたニューヨークでの生活を始めた。

彼がアメリカで実際に生活を始めてみて、強烈な感動を受けたことが二つある。一つは、恐るべき勢いで発展しつつあったこの新大陸のエネルギーであった。なにしろ、その頃のニューヨークには、摩天楼ともいわれる超高層のエンパイア・ステート・ピルこそまだ建ってはいなかったが、目抜き通りのブロードウェイでは、鉄筋の大ビルディングがずらりと建ち並び、電線が縦横に張りめぐらされ、道路という道路は人や馬車で埋まっていた。そうした活気のある都会の姿が、万事につけてのんびりとした故国での生活になれていたドヴォルザークの目に、強烈な印象を与えたとしても、不思議ではない。

二番目は、素朴なアメリカ民謡や黒人霊歌などから受けた感動であった。ドヴォルザークが院長をつとめたナショナル音楽院は、本格的なアメリカの音楽教育の草分け的存在で、創設者サーバー夫人のすぐれた識見から黒人も白人と同じように入学することが認められていた。ドヴォルザークは、庶民的で、わけへだてのない広い心の持ち主だったから、そうした黒人の生徒たちにも進んで接し、彼らから黒人霊歌という素晴らしい歌の宝庫を発見したのである。

黒人霊歌というのは、1700年代の終わり頃、アフリカから奴隷として連れてこられた黒人たちの間で歌われていた歌のことで、聖書にまつわる宗教的な内容の歌や、白人にしいたげられる苦しみからの救いを求めた、祈りと希望を歌いあげたものが主になっている。

ドヴォルザークは、それまでアメリカ人の間で不当に低く見られていた黒人霊歌の価値を認めた最初の大作曲家であった。彼は、しばしば自宅に若い黒人歌手ヘンリー・サッカー・バーレイを招き、彼の歌う黒人霊歌に熱心に耳を傾けた。特に有名な《スウィング・ロウ、スウィート・チャリオット》がお気に入りで、何回も繰り返して聴いたという。

こうして、黒人霊歌の素晴らしさを知ったドヴォルザークは、新聞に、黒人霊歌の真価に対する自分の見解を発表した。彼はこう述べている。
「きわめて美しく変化にとんだテーマは土の産物である。これは、アメリカの民謡であり、アメリカの作曲家はここから霊感を汲み取るべきである。黒人霊歌のなかには、偉大な音楽家の必要とするすべてがある」

彼はこうして音楽院の院長という激職の義務を果たすかたわら、その頃得たこの二つの刺激から、新しい一つの交響曲をまとめた。これが、翌1893年(52歳)の1月から5月24日にかけて草稿を書いた《交響曲第九番》(新世界より)だったのである。

彼は、その年の夏休暇を利用してニューヨークから2000キロも離れているアイオワ州のスピルヴィルを訪れた。彼が、何故この時わざわざそうした不便な場所を選んだのかというと、その頃の彼は強いホームシックにかかっていたので、弟子のコヴァルジークが、彼の父親が教会の牧師をしているこの村を熱心にすすめてくれたからであった。

2. 行ってみると、そこは当時ボヘミアから来た多数の移民が住んでおり、彼の故郷さながらの雰囲気を持っていたので、彼は大変喜んだ。チェコ語は気兼ねなく話せるし、チェコの料理は、たらふく食べられるし、風景も故郷のヴィソカーによく似ていた。彼は、この土地で故郷で生活をしている時のような楽しい気分に浸りながら、この曲のオーケストレーションを一気呵成に書きあげた。

初演は、その年の12月16日、アントン・ザイドルの指揮でニューヨークのフィルハーモニー協会の管弦楽団の演奏で行なわれ、結果は大成功であった。新聞は、「静かなアメリカ人が熱狂し、世界で最も興奮するイタリア人のように喝采した」と伝えたし、ドヴォルザーク自身も「聴衆があまり拍手するので、わたしはまるで王様にでもなったかのような素晴らしい気分だった」と述べているほどである。そして、この曲は、同時に独創的な交響曲に与えられる、300ポンドの賞金を獲得したのだった。

ご存じのように、この曲には作曲者自身によってつけられた「新世界より」という副題があるが、「新世界」というのは、いうまでもなく新大陸アメリカのことを指している。しかし、ここで誤解のないように述べておくが、この曲は決して、標題音楽のように、その新大陸の風物を克明に描写した音楽ではない。

また、この曲の中には、黒人霊歌やアメリカ・インディアンの民謡を思わせる旋律が巧妙に使われているが、これらのものは、決して、黒人霊歌やアメリカ・インディアンの民謡がそのまま使われたものではなく、ドヴォルザークは、それらを自分流に十分咀囑したのちに用いているのである。

ある時彼は、ドイツの評論家が、この曲にはアメリカ・インディアンの旋律がそのまま用いられている、と評したのに対し、こう反発している。
「わたしがこの曲に、アメリカ・インディアンや黒人霊歌の旋律を原曲のまま用いているというのはナンセンスである。わたしは、こうした旋律の精神を生かして、国民的なものを書こうとしただけである」と。
これで、この曲につけられた「新世界より」という副題の意味がおわかりになったと思う。

つまり、この曲にただ「新世界」とだけつけずに、わざわざ「新世界より」としたのは、ドヴォルザークが、この曲をアメリカから故郷のボヘミアに送る音楽による望郷の手紙のようなものとして書いたためで、たまたまアメリカで書いたから、この手紙にはアメリカの土の香りがすると思えばよろしい。

だから、この曲の材料はアメリカから得たものの、曲の支柱となっているのは、あくまでもボヘミア(チェコ)の精神なのだ、ということを忘れないでほしい。曲は全部で4つの楽章からできている。

曲中、最も有名なのは第二楽章ラルゴで、イングリッシュ・ホルンで奏される主要主題は、新大陸の田園詩の一節といってよいだろう。ここには、祖国を遠く離れた移民たちの郷愁が実によく現われている。いつ聴いても胸に深くしみとおる名旋律だ。なお、合唱曲として有名な《家路》は、ドヴォルザークの弟子のフィッシャーが、この名旋律に歌詞をつけたものである。


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