クラシック音楽は周波数の振動を利用した芸術で価値がある
目次
1.美しきクラシックの効用とは
クラシック音楽の美しき効用とはなんだろうか。一言でいうと、クラシックは「聴きやすい」のだ。これには、わけがある。自然界の音に優るとも劣らないその特質を、構造とクオリアの面から見てみよう。まずは、構造について。
そもそも音とは、空気の振動である。音楽とは、その空気中を伝わる振動が、一秒間に繰り返されるところの周波数を利用した芸術である。つまり、自然界の数学的現象(すなわち振動)と根底でつながっている。
具体的には、音楽は構造自体が自然数から成り立っている、「倍音から生まれる共鳴現象」である。「倍音」とは、基本となる音を整数倍した周波数を持つ音のことで、基本の音と倍音とが同時に鳴っても、耳に心地よい響きとなる。気持ちのよい音楽を聴いている時、私たちは数学的な精密さで構築された自然界の波動を享受しているのだ。
また、人が音楽を聴いた時の脳の状態は、食べたり飲んだりした時のそれと非常に近いことがわかっている。音楽から得られる喜びは、生物としての基本的、本能的な喜びの回路と共通しているのだ。
つまり、音楽を聴くという行為は「自然の営み」である。これが、音楽体験が生命原理に近いといわれる理由の一つだろう。
とはいえ、バッハ、モーツァルトといった高次にプロフェッショナルな「音の職人」たちによる音楽の美が、単に「数学的な構造を背景にした音」のみに由来すると考えるわけにはいかない。それだけでは、あの美しさにはほど遠い。仮に「数学的均整さ」といったことを持ち出すのなら、それはいまだ人類が把握していない高度な「未来の数学」を引き合いに出さねばなるまい。
一体、なにを背景に、あの美しさは生まれているのだろうか。こうした問いの鍵となるのが、「クオリア」である。
自然の営みに、「芸術家の手によるクオリア」が加味されたものがクラシック音楽である。そして、音楽と数学の関係を今述べたように考察することが、つまるところ、心と脳という一見異なる世界を一つにつなげる方法になると考えている。
だからこそ、クラシック音楽の演奏会場で、耳をすます。自分自身を楽器にする。自分という楽器を鳴らすことで、自分の考えへ降りていくのだ。よく鳴った日は気持ちいい。自分の感情や思考が共鳴した日は幸せだ。言葉が生まれ、記憶が蘇る。このように「聴く」ことを能動的に意識した時から、クラシック音楽は、人生の充足度を映してくれる、自分だけの鏡となるのだ。
もう一つ特筆したいのは、ジャンルとしてのクラシック音楽である。
また、一般的にも、クラシック以外の音楽の方が好まれ、その場にふさわしいということは多い。
しかしながら、クラシック音楽の、ある種の作曲家が作った曲のすばらしさは、絶対に揺るがない価値にある。単なる好みということ以上に、音の密度や様式の美といったクラシック音楽の構造が、自分の思考運動と相性がよく、脳内をエネルギッシュに働かせてくれるのである。これほどの快感は他にない。
また、クラシックほど、浮世の人気を超越した音楽もないだろう。人為的な影響によるブームはあるにしても、性々にしてそれはごく限られた範囲での出来事であったり、すこぶる一時的なものであったりする。
数百年も前に作られた作品が、今もなお多くの人々に、世俗的な流行り廃りとは関係のないところで聴き続けられ、愛されている。時は正直である。小手先のものにごまかされはしない。時代に淘汰され濾過されて残ったものには、それだけの価値がある。普遍のものとして、クラシック音楽は存在しているのだ。その動かない強さは、他の音楽あるいは芸術とは比較にならないものであろう。
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